カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

五月病な読者諸姉諸兄へ

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私は大学生だった頃、五月ぐらいの時期に、体調と精神状態が低調になっていた。低調なのは五月に限らなかったが。
三十歳を過ぎた頃に再び専門学校だの大学だのをいくつか転々と覗く機会を得た。五月後半になると大学に来なくなる学生が多い。来なくなるタイプの生徒は傾向性がある。
まあ色んなケースがあるんだけど、私は全ての学生に愛情を持っているわけでもないから、以下自分に似たケースだけを書いておく。
田舎の出身者。田舎といっても隣近所というものが存在しないタイプの田舎だ。人口密度がひどく低く、人と対話する距離が物理的に遠いことが多く、反響するものすら少ないから大声でなければ会話ができない。というタイプの田舎。結果、地声が大きくなり、2年や3年ではその習性が治っていない人。
同級生で大学まで進学した者が極めて少ない人。大学の文化とも都市の文化とも歯車が合致しない人。
糞ド田舎だと人口密度が低いから、却ってあらゆる人間関係が異様な濃密さになり、生活のありとあらゆるところに介入されてしまう環境に育った人。こういう異様に濃密な人間関係の場所では「成績がよい」ことはしばしば悪徳であり、「成績が良かった」ことが何を約束するかがイメージできないまま大学へ進学した人。
都市生活は、このあらゆるところに介入される異様な濃密さの人間関係とは対極的なところにあり、そのため歯車が合致しない居心地の悪さをいつまでも拭えない人。
…いかん、暑苦しい系ばっかり列挙してしまった。
過去の私自身は暑苦しい系だったが、必ずしも暑苦しい系でなくても、人間は基本的な生活条件が三つ以上大変化すると精神が軽く失調する。と思う。大学生時代、私は軽く失調し、「大学」自体に目的を持って進んだわけでもなかったから、糞真面目な悪い側面が出て、「授業に行かない」ということを糞真面目に実行してしまった。時間と金と機会の盛大な浪費。誰にも勧めない。浪費してしまったからその十年後に勉強のし直しの必要を激烈に覚えた。それもまた時間と金と機会の激烈な浪費。勧めない。

2

ところでこの世には2種類の人間がいる。「官僚」という言葉の意味がイメージできる人と、できない人だ。「国家1種試験」というのがこの世にあり、これに合格すると物凄いスピードで出世し、これに合格した人々は自分を「特別な存在」だと思うようになる。少なくとも「庶民」とは別な存在だと思うようになり、「庶民」もしばしば彼らをそう見なす。ということを知っている人と知らない人に分かれる。
これを「知っている」人は、「知らない」人がこの世にいるということ自体がイメージできないし、また「知らない」人というのを軽蔑しているようだ。これを「知ってい」て受かった人は、しばしば、受かっていない人々は「能力が届かなかった」のだと思っている。らしい。まあそれはいいや。
日本の大学はこの「官僚」を育成するために設置された、としばしば説明される。そういうものらしい。「国家1種試験」というのは現在の「科挙」であり、それにチャレンジするために大学生になる、とけっこう多くの人が思っているらしい。
そういうことを私が知ったのは三十歳を過ぎた後だった。私は色々偏った環境で過ごし、家庭運が薄く肉親がちょっとアレでそれでえらいムダなエネルギーと時間の消耗をし続けてその煮凝りなアレのためにそういうものに挑戦するということを全然考えもしなかったが、我がブログ読者は優秀な人々も多いだろうから、挑戦されてみてはいかがだろう、とここで述べてみる。
たとえば私たちが喧嘩している「敵」である竹花豊なども警察官僚だから「権力」を行使可能なのであり、我々の「仲間」が官僚の道に進みそこで正義を実現してくれたら、我々はたいへんに助かる。残念ながら私にはその選択肢はすでに存在しない。「国家1種試験」に合格し、たとえば警察庁に入庁すれば、20代で警察署長になれる。そのシステムがいい悪いは置いて、能力のある読者諸姉諸兄は考えてみてもよいと思う。正義が実現されるのなら動機などどうでもいい。汝が才能は安倍晋三に数倍する。安倍晋三なんぞと比較されても迷惑だろうけど。安倍晋三は補佐するに足りず、汝とって代るべし。

3

三十歳を過ぎた頃に専門学校や大学を覗いた、もっとハッキリ言うといくつもの大学で「ニセ学生」をしたのだが(指導教官には説明して見逃してもらっていた)、こういうのを昔の言葉で「天ぷら学生」というんだが、衣だけが学生ってことね、その時の感想を以下に記す。
偏差値と頭の良さはあまり関係しない。偏差値と「お育ちの良さ」は深く関係する。「お育ちの良い」人のほうがおおむね行動がスマートでつきあい易いことが多い。とはいえ、それは指導教官の人格に大きく規定される。
偏差値の高い学校(すなわち「お育ちの良い」学生の多い学校)ではマンガを読まない学生が多い。マンガは社会下層の娯楽なんだなあ、と思った。
どこの大学でも、「凄い」先生はいる。「凄い」先生と親しく付き合える機会は大学でのみ得られる特権である。その特権はフルに使うべきである。
自分の学部・自分の大学で「凄い」先生が見つからないのなら、違う学部・違う学校の「凄い」先生の授業を覗きに行くべきである。私はその三十歳過ぎのときには、片道2時間かけて授業を2年以上聞きに行っていた。「凄い」先生の授業にはそのくらいの価値はある。片道2時間程度の距離までならぜひ聞きにいけ。(ふつうの通勤や通学の時間としてはアリの時間だ。)一番の障害は心の中の壁だろうから、その壁を破れ。
そして教わるときはできる限り行儀よく振る舞え。調べるときは、自分が納得できるまで頑張って本に噛り付け。大学図書館が使えたら大学図書館をフルに使い、国会図書館が使えたら国会図書館を使え。学ぶべきは「調べ方」そのものだ。頑張ってそのハードルを越えろ。
忘れてはならない言葉は1つ。「世間は甘い」
我がブログ読者諸姉諸兄の未来に幸多からんことを。*1

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*1:[2010/05/09]「世間は甘い」は、つかこうへい が使っていたフレーズです。