カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

ふと思い出したが

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ふと思い出したが、母はだいぶ前に還暦を過ぎていた。父も古希を過ぎていた。が、何もしてやれない。母の還暦にも、父の還暦にも古希にも何もしてやらなかった。そういう発想も湧かなかったし、正直に言って何かしてやりたいという気持ちもあまり湧かない。どんなかたちであれ祝ってやれば向こうは喜ぶだろうが、正直に言って実家への恨みつらみがやや勝る。経済的には向こうは勝ち組で、こちらは負け組で、向こうが勝ち組になれた要因の何割かは、私の人生のかなり長い時間を家業で磨り潰したことによる。我が親は悪人ではないが、世間が狭すぎ、私が考える意味での社会常識を欠き、結果、私はひどく人生の時間を浪費し、今もしている。必ずしも父母自身に責任があるわけではないが…たとえば母の生育環境がもう少し良好だったらだいぶ違っていただろう、とは思う。父がもう少し恵まれた環境だったら、とも思う。同じ意味で私にも責任がない。我が家は日本の平均に比べ、およそ一世代分経済成長が遅れていた。父母と無縁だと考えれば恨みもないが、無縁ではないと考えると恨みが頭をもたげる。濃密な人間関係は、良好な親子関係を意味しない。
母親の声を聞き母親のことを思い出すと、憤りで他に何も考えることができなくなり、両肩に力が入り無意識に両肩がせり上がり、全身がこわばり、それが数日続く、といったことは他の人はないんだろうか。たぶんあまりないと思う。自分程度でこれだけ恨みが消えないのだから、本格的な児童虐待を食らった人々はどれだけ人生の時間とエネルギーをその憤りの処理に浪費せざるを得ないか。人生はこういう浪費が少ないほうがいいに決まっている。
…そうか、母は還暦を過ぎたのに俺(たち)が祝ってないこともあって、あんなことを言い出したのか。…せめて我が母がもう少し人の痛みの分かる人だったら、とは思う。思っていた。私も歳をとったのでけっこうどうでもよくなったが、中年になると筋肉痛が数日遅れで出てくるのと同じで、数日経って湧いてくる。この年齢になってもまだ消えないとは。情けないと思うが、感情は自分の意思や理性とは無関係に来る。
だから私は親殺しのマンガばかり描いていた。作中で直接母親を殺すケースはほとんどなかったが、作中で性別を逆転させて心情を吐露することが自分には必要だった。憤りの処理なんかに人生の時間とエネルギーのかなり多くを使わざるを得なかったことは幸福なことではない。
ブログにこういうことを吐ける程度には自分にとってこれが他人事になったとは言える。20歳代の頃は処理ができなかった。そして人生の半分以上の時間を、こんなことを思い煩うのに浪費してしまったことを、残念に思う。母は「ポジティブシンキング」で「脳内革命」な人で、自ら省みるのを拒絶するためには全力を尽くす人なので、私との関係が劣悪であることに全く気づこうともしなかった。善人ではあるが状況をこじらせた。先日、かなり酷いことを母に言って、やっと母も少し気づいたらしい。還暦を過ぎた母に酷いことを言ってしまうことがまた残念である。言っている自分自身、人間としてどうかと思うようなことを。

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http://anarchist.seesaa.net/article/118182456.html を読んで思い出したこと。本多勝一を高校生の頃、読み倒した。本多勝一ルポルタージュは今見ても絶品だとは思う。だが本多勝一の論説・随筆を理解するには色々な前提が必要だ。たとえば丸山眞男などを読んでおく必要があるだろうと今なら思う。私は丸山眞男を読むようになったのは30歳を過ぎてからだった。前提を欠いたまま本多勝一に熱中すると、いくつかのところで大きく誤読する。
高校生の頃、大学のどの学部を受験すべきか悩み、自分なりに色々調べたが、私があたった資料には「学部」の説明はあってもその先が不透明だった。私の生育環境からは大卒の世界は想像不可能で、かつ家業が強烈に人手を欲していたので、大学進学は「贅沢」の類だと私は思っていた。この場合の「贅沢」とは「不必要」という意味だ。
本多勝一の文体はしばしば激烈だ。法律がいかに悪用されているかを法学部生へ向けて本多勝一が語った文章を読んだちょうどその時のこと。父母は父母なりに私の進路を考えて、「法学部に進まないか?」と私に勧めた。父母はたいがいの場合間違ったことしか言わなかったが、この薦めは正解だったと今にして思う。折が悪く、そして私に情報があまりに乏しく、「法学部は嫌だ」と私は答えた。法学部に関する情報は私はその本多勝一の文章しか持っていなかった。中卒の母と夜間高校卒の父は、進路についての自信がなかったのだろう、その後、学部の話を私には二度としなかった。父母は善人だが調べるということ、詳しい人に相談するということをしないし、将来展望も基本的に考えない。相談する相手もないまま私はかなりいいかげんに学部を選び…高校の担任とは相性が悪く、高校教師に我が家業の生活は想像不可能で、対話が成立しなかった…、そして入学してすぐに失敗したと思ったが、実家から離れることだけが大学進学の目的だった私は、そのまま授業に出席もせずずるずると日々を過ごした。激烈に労働力を欲していた父母、とくに母は、夏休みが始まるずっと前から、前期試験期間前から「まだ夏休みにならないか、他の大学は夏休みになっているではないか、嘘をついているのではないか、人手が足りないから一日でも早く来い」と連日私に督促電話をかけ、実家に帰るなり私は文字通り血尿が出るほど労働させられ、接客で精神的にズタズタになり、二学期は人に会うのすら厭い、下宿で引篭もり生活をして過ごした。サークルにだけは顔を出したが。そこが私の人生で初めて会う文化系の人々の集団だったから。そして時間だけを浪費して私の大学生活は終わった。
そんなことを思い出した。
本多勝一の本は私の人格形成や社会への見方の大きい部分を作ったが、上記は私が本多勝一を誤読した寂しく残念な思い出だ。
関連 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090411#1239389827 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20070119#1169154250 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20070517#1179342977 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20070901#1188593463

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こんな私が中学受験の講師をしているのは皮肉だとこの頃改めて思う。

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画像はhttp://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=4020908から。