カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

実務先行か、観念先行か/何をお手本として「運動」を考えるか

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20101226#1293370917 の続き。
以下、すごく粗いまとめであるので、色々学問的歴史的に怪しいことを書くが許せ。

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市民運動」とか「左翼運動」という言葉がある。
日本の「市民運動」のルーツは、「ベトナムに平和を!市民連合(べ平連)」だと私は聞いているんだがそれで正しいのかな。反戦運動から始まった。
この「反戦運動」のルーツは、60年代の安保闘争にある。系譜的には「左翼運動」の系譜となる。
で、60年安保http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060913#1158099744 の当時、社会党議員団なんかはとても感動的な動きをしていたりするんだが、そういうことはあまり語られることはない。
60年安保時代は国民運動的な広がりを一瞬持つが、その後、高度経済成長時代になり、国民運動としての安保闘争は終了する。次ぐ70年安保闘争は「新左翼運動」の「学生運動」だった。しかしながら時代は高度経済成長であるので、一般社会は政治への関心を急速に失い、国会や地方自治体の議席は、総体として、自民党一党体制みたいなのが続く。その過程で革マル派のリーダー黒田寛一が1962年の参議院選挙に出馬して2万票しかとれず落選したりしている。
で、冷戦状況下では、選挙と議会は保守政党の圧倒的優勢で、少数派としての「左翼」は、議会で自分の意思を実現するのが、物凄く困難だった。
議会、つまり実際の政治で意思を反映できない状況下では、「左翼」がとる選択肢は限られてくる。
1;議会を軽視・軽蔑し、街頭活動で自己実現を図る。
2;議会を軽視・軽蔑し、観念に逃避する。
主にこの2つだ。
(その他に 3;議会を無視・軽蔑し、暴力革命を狙う。という路線が「日本赤軍」や「連合赤軍」に至る。「連合赤軍」事件でこの路線は社会的影響力をほとんど失う。現在は少なくとも左翼においては絶滅。)
新左翼運動」の挫折から生まれた「市民運動」は、多少は議会を重視したが、議会でどうこうするには、「冷戦」という壁が高すぎた。そのため、「左翼運動」「市民運動」は、全体として、議会を軽視・軽蔑する傾向にある。

2

冷戦期・高度経済成長期に「議会対策」をしまくっていた集団が存在し、それが統一協会やら創価学会やらの宗教団体だ。
創価学会の場合は、「選挙に勝利することこそ信仰が正しいことの証明」として、地方議会・国会選挙に全力を挙げ、そして議員を増やしていった。
統一協会の場合は、冷戦構造下をフルに利用して、自民党に食い込んでいった。具体的には選挙を無償応援し、秘書を送り込み、国会内に統一協会ネットワークを作っていった。同時にマスコミにも食い込んでいった。政治と情報(マスコミ)を掴めば、当然に意思を実現させやすくなる。

3

「左翼」と「右翼」は必ずしも対称な存在ではないんだが、それはそれとして、一般に、右翼は左翼の真似をするもの、左翼は右翼の真似をするものだ。余計な話だが、「内ゲバは左翼の伝統だ」と誤解しているんだかプロパガンダしているんだかな人が多いけど、右翼の歴史はそれこそ内ゲバの歴史そのものなんですよ。少なくとも60年代くらいまでは。http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20080421#1208734449 木下半冶の本、復刻しねえかなあ。しねえだろうなあ。大学図書館で読める人は読んでおいて下さい。
で、「右翼」は「左翼」を「大衆運動の巧い連中」と思っているので、左翼の手法に習って右翼が「大衆運動」してみたのが「新しい教科書をつくる会http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/thesis/2001/ueno.htmだったり、そこで大衆運動テクを掴み発展させた「救う会」だったりする。「歴史教科書をつくる会」については小熊英二・上野陽子『"癒し"のナショナリズム』が最も詳しいというか、「空気」を掴んでいる。

4

「左翼」から発展した「市民運動」のほうでは冷戦終了時から「実務」的な流れが少し出てきて、という解釈でいいのかな、「情報公開法」とかをフルに駆使する動きなんかも出てきた。(「個人情報保護法」という悪法により、「情報公開法」の使い勝手が悪化したようだが、めげすに我々は使うべきだ。)

5

で、そろそろまとめに入るが、ネットで「運動」しようという人は、冒頭に上げた「議会を軽視・軽蔑し、観念に逃避する」傾向がある。理屈をこねることで何事かをなしたような気になってしまう傾向、と言い換えてもいい。
それよりは少数派になるが、「議会を軽視・軽蔑し、街頭活動で自己実現を図る」のが「市民運動」だ、という枠組みもあって、「東京都青少年健全育成条例改正案に反対する女性表現者の会」 http://blog.livedoor.jp/fujoshi2010/ なんかはそういう思考枠じゃないかなあ、と思う。

6

私が「最前線」と呼んでいるオタク系表現規制反対運動の一群は、「実務主義」を優先させております。
「冷戦構造」が終了したことにより、議会対策はそれ以前よりハードルが低くなっております。実際の政治に意思を反映させるのは、正しい「手続き」をとれば、不可能ではないのであります。
「最前線」以外の我々も、今までよりもっともっと「実務」に慣れるべきであります。たとえば「情報公開請求」などの実務でもって東京都から情報を引っ張り出し、それを検討し圧力をかける、そういったことをより活発に行なうべきであります。http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20101220#1292839180で述べた「団体」は、まず初めは表現規制反対をするための知識収集としての「読書会」あたりからスタートするのが妥当ですが、数年内に「情報公開請求」などの実務をこなせる力を持つべきだと思うのであります。そういう「実務実力」を持つ「団体」がどのくらいの数生まれるかが、今後10年の「表現規制反対」運動の命運を分けると考えるのであります。
「実務主義」「実務先行」でいきますと、「手続き」が正しいか、「手続き」が巧いか、望む結果(我々の場合、「表現規制反対」)にどの程度近づけたか、ということが眼目になりまして、結果として、イデオロギーフリーに近づきます。(余計なことですが、左翼と自認する私が、「表現規制反対」表明をした右翼系政治家については非難をピタリ止めるのもその一端であります。)
別な例で言いますと、「慎太郎×猪瀬」か「猪瀬×慎太郎」なのかは、ある種の腐な同志には凄く重要な事項なのでありますが、それを描き表現する場を確保するという目的において、「慎太郎×猪瀬」派と「猪瀬×慎太郎」派がどっちが「真理」であるか論争しても意味がないのであります。それを描き表現する場を確保するためには、それ以外については棚に置くことが戦略的に正しいことは判るはずであります。
「東京都表現規制問題をめぐる一連の出来事についての共同声明」は、「同じ『市民運動』なのに、新たに来たものを排斥するとは何事だ、そういう党派主義はイクナイ!」と非難しているのだろうと思いまして、それは心情的には判らんでもないのですが、我らオタク系表現規制反対運動は、今まで述べたように、「議会対策」をたいへんに重視する「運動」でありまして、議会軽視気味な「市民運動」ノリで「乱入」されるのはちょっと、とか、「巧くない」「正しい手続きを取らない」ことにあまり我々は寛容ではないとか、いやどうも文章に書くとここはえらく堅苦しい感じになって言いたいこととはだいぶズレるのでありますが、そういうのが「かしましい」ことに至った大きい理由だと思うのであります。

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