カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

『沈黙』に寄せて、96年遠藤周作追悼文

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遠藤周作が亡くなった頃になんか書いたな、と思い、webアーカイブを探していたら以下出てきたのでここに残す。

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追悼遠藤周作
(以下は、パソコン通信「NANAYAツインシテイツマンション」に発表したものです)
96-10-03 Thu 21:24
   レポート ;遠藤周作のイエス像(遠藤周作逝去によせて)
 私はまともな文学に殆ど触れていない文学音痴ですが、遠藤周作作品は愛読書もありますので、追悼の意を含めて、駄文を綴ります。
 「現代」の不幸は、人々が、信ずるべき拠り所を失っているところにある。…私はこのように考える。現代を生きる私たちにとって、信じることができるものは、あまりに少ない。しかしながら人にはその信ずるべき拠り所が必要なのである。世界の中で、背中を預けるものなく、寒風にさらされることは、人には耐え難いのだ。いわゆる「現実世界」という代物は、見ることはできても、知ることはできても、信じるに値するリアリティを持っているようには思えない。説得力がないのだ。頬に風を感じない。肌に体温を感じない。そして自分がここにいていいのかわからない。自分の心は人に伝わらない。そのことは耐えられないのだ。人は弱いのだ。徹底して弱いのだ。心はいつも貧しいのだ。それを必要とするが故に、人は「本当に信じられるもの」の代替品を誤って選びとる。ある人にとってはそれがオウムであった。或いは別なカルト宗教だった。或いはそれは陰謀論という世界の見方であった。或いは何かの政治運動だった。或いは現実を打開する「指導力」をもつカリスマであった。現実世界の救世主だった。
 しかし、遠藤周作がたどりついたキリスト像・イエス像は、「現実世界において全くの無力な人間」であった。彼のイエスは、何一つとして「奇跡」を起こすことはできない。超能力など何もない。彼は非力な人間にすぎない。
 『キリストの誕生』のなかで、遠藤周作はイエスをこう言う。

 …イエスは同時代の全ての人間の誤解にとりかこまれて生きねばならなかった。短い生涯の間、民衆も敵対者も、弟子達さえも彼を全く理解していなかった。味方である者も勝手な夢と希望とをイエスに託そうとした。イエスは自分の意志とは根本的に違った大衆の期待の中で孤独だった。庶民たちは彼に愛よりは現実的な効果を求め、大衆は彼をローマに蹂躙されたユダヤを再び「神の国」に戻す地上的な救世主だと守り立てようとした。こうした身勝手な期待と興奮は一時はガリラヤの春と呼ばれる熱狂的な人気を生んだが、やがてイエス自身に大衆の考えるような地上的救世主の意志がないことを知ったとき、彼らは反転してイエスから去って行った。大衆の目には無力な存在としてしか彼は映らなかった。弟子達ですら彼を見捨てたのは、彼が自分達の夢に値しない、何もできぬ師として映ったからである。だが聖書の深い問題はそこから始まる。無力だったこのイエスが何故その死後、神の子と見なされたのか。彼が十字架にかけられた時、見捨てて逃亡したあの弟子達がその後何故、命をかけてイエスの教えを広めようとしたのか。イエスは何故無力なるイエスから栄光あるキリストに変わったのか。弱虫だった弟子は何故、強い信念と信仰の持ち主になったのか。(『キリストの誕生』より)

 イエスは、出会った人々の心に深い影を残した。彼がなし得た奇跡はそれだけだった。遠藤周作は、『イエスの生涯』で、さらにこう述べる。

 …イエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は彼らを愛する者がいないという事だった。彼らの不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独観と絶望とがいつもどす黒く巣くっていた。必要なのは「愛」なのであって、病気を治す「奇跡」ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみをわかちあい、共に涙を流してくれる母のような同伴者を必要としている。(『イエスの生涯』より)

 永遠に人間の同伴者となるため、愛の存在証明をするためにイエスは最も惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わう全ての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。そうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かち合うことができぬからである。
 「アガペー」(愛)という言葉は「共に」ということを意味する。共に喜び、共に泣く。遠藤周作のなかでイエス像は、「永遠の同伴者」として、母親的なものとして結晶していき、それがために従来のカトリックからは非難すら受けた。しかし彼の説くイエス像は、日本人の心にしっとりと染み込む慈愛に満ちている。
 確かサルトルだったか。「飢えた子供の前で文学は何が出来るか」という命題を立てたのは。遠藤周作作品は、それに一つの回答を与えている。飢えた子供の前には、美味しい食べ物の他は、全くの無力だ。だが、人は、食べ物を持っていないときでも、その子供の手を握り、背中を撫でてやることはできる。そしてそれは無駄ではない。
 余談ながら、私の祖母は非常に病弱で生前幾たびも生死の境にいたことがあった。そして祖母は、こう言ったことがある。
「病気で本当に苦しいときに欲しいものは、誰かが手を握ってくれていることだ。それがあるだけで、どれだけ安心することか」
 遠藤周作のイエス像は、大事な示唆を与えているように思う。人が人に出来ることは、苦しいとき、手を握ってやる事だけなのだ。イエスですらそうだったのだ。そしてそれが最も大事な事なのではないかな。と。 
誰かさん記す

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