カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

中学受験国語的読解法/具体と抽象/古森義久(代表的なアメリカのスパイ)擁護者

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061011#1160521802■[塾][メモ][思惟]「物心」のついていない人たち
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060924#1159035885■[思惟]「抽象」と「具体」/「枝野幸男」と「煽り」 の続き。

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上記二つのエントリは、「具体と抽象」という(石原千秋の)中学受験国語的読解法を考察する上で派生的に生まれた。「具体と抽象」について、まず石原千秋の述べるとこを以下に引用する。

次に、これをどういう風に抽象化するかを考える。中学入試の国語記述問題で問われているのは、抽象化の能力だからである。
だから、まず、「抽象化」とは何かと言うことを教える必要がある。「あのリンゴも、このリンゴも、ひとまとめにして林檎と呼ぶのが抽象化である。」「敵と戦ったり、悪人と戦ったりする、その個々の具体的な行動をまとめて、共通した性質を『勇気』と呼ぶのが抽象化である。」こんな風に教えた。(90p)
「大人になること」、これが国語という教科の目標なのである。(92p)
入試国語にとって大切なことは、この場合の「大人」とは社会の秩序を内面化した人物を指すということだ。(93p)

秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)

秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)

今回はこの中学受験国語読解法を実際に用いて、中学受験国語的に他のブログを読み解くという作業を試してみる。

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作業する前に、ちょっと復習というか、以前に私が述べたことを以下再掲しておく。

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060924#1159035885
無用な対立を煽ろうとするとき、人は、抽象レベルを下げる。感情・情緒は個々人の実存に関わる「具体」なものだ。「煽り」は抽象思考を排し、前提する情緒を無反省に放出し、感情レベルの「具体」のみへ思考を閉じさせることを言う。〔略〕情緒と具体を不可分なものと前提し、この情緒に全面共感か全面対決のみを要求する、これを「煽り」という。〔略〕これが「技術」として確立し実際に政治戦・宣伝戦で駆使されると、その社会集団の知性はみるみる劣化していく。

これも石原千秋の説く「具体と抽象」から連想した事柄だ。以上、復習として確認しておく。

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さて、ではテキストとして http://d.hatena.ne.jp/pr3/20060923/1158990935■[watch][opinion]古森義久氏は日本の敵。 を「中学受験国語読解法」で読むこととする。
ブログ主id:pr3さんの論旨は明快だ。以下に中学受験国語読解的にまとめる。

1;筆者の主張 「自称『愛国者』ほどの売国奴はいない」
2;主張の具体例 「『愛国無罪』を掲げ暴れた中国の反日デモは、中国の対外的イメージを地に落とした『中国の敵』である」
3;筆者の結論 「自分自身および自国の過ちを認めない古森氏のようなタイプの『愛国者』と、反日デモの暴徒たちは、同じレベルだとみなされる」

「抽象」とは共通要素を発見することだと仮にしておく。「中国の反日デモ」と「古森義久」の共通要素は何か? 解答は「自分自身の過ちを認めないことで、客観的にはその国の対外的イメージを落とすこと」。中学受験国語的には以上が模範解答となる。
ここで「客観」という言葉が出てくる。「客観」の意味するところは何か? 「他人がどう見るか」「他人がどう見るかへの想像力」といったところが、中学受験国語的には解答となる。

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ところで、中学受験国語からここで一旦離れる。「客観」は、私がよく言う「呪的闘争」の対象となりやすい、「概念霍乱」がしきりと行なわれる言葉の一つだ。「概念霍乱」者の目的は日本人の知性の劣化以外には私には考えられない。言葉を正確に用いなければ、思考が正確でなくなる。日本人の知性を不正確にさせ、劣化させたいという強い意思がどこかから常に湧いている。
さて、戦前の日本の公式イデオロギー國體」思想と、「客観」という概念は、両立不可である。「國體」思想は日本を「万邦無比」と思い込めと要請する。これは「客観」とは相容れない。「客観」は、他人の目になって観察せよ、思い込みを排し情緒を排し、物質を扱うように観察せよ、という要請だ。情緒という偏見を捨て、より正確に観察せよ、と要請する。
「國體」思想の残像漂う日本社会という「呪われた」場所に住む我々にとり、「客観」という概念は実はあまり血肉化していないのかもしれない、と我々は疑うべきである。もちろん、我々はふつう、日常言語をそれほど根本的には考えたりはしないものだ。だがそれゆえ、我々は言葉に無防備になりがちだ。「客観」という言葉は日常言語と非日常言語のグレーゾーンに存在するとも言える。このグレーゾーンにある言葉は、とんでもない誤用がしばしば行なわれがちである。たとえば「客観」という言葉を「当事者意識の回避」「傍観的であり責任を回避する」「無責任な自分を取り繕うための言葉」という意味に用い、自分自身をかばうときに用いる人々というのは存外多い。「グレーゾーン」に存在する言葉は、「概念霍乱」を生業とする「変な人びと」の標的となりやすい。
そして、今回のテキスト http://d.hatena.ne.jp/pr3/20060923/1158990935 にまず最初に登場するコメントは、その(比較的脆弱になりやすい)マジックワード「客観」を用いた。
ついで「ラルゴ」というコテハンを用いるコメントが登場する。「ラルゴ」を含めコメント4者(古森義久擁護者)は、思考形式と語彙が全く同じであり、複数を装った一人であるように思える。
さて「ラルゴ」のコメントはこうである。

『 反日を名目にして暴行、破壊活動を行ってる奴と評論家を同一視するって正気でいってるのかなあ。これって釣りでしょ。』

このコメント内容は、中学受験国語読解的には、零点である。つまり「ラルゴ(古森義久擁護者)」は「私は個別の具体は見えるが、共通する因子は私には全く読解できない」と表明しているに等しい。つまり中学受験国語読解法的には、「ラルゴ(古森義久擁護者)」は「具体」しか見えず「抽象」が理解できない、と表明していることになる。「抽象が理解できない」というのは一種の知的疾患ないし知的未熟、幼稚の表明である。が、そのわりに「ラルゴ」の文体は自信ありげに装っている。…幼稚な文を中学受験国語読解では扱わない。中学受験国語の題材文は、「大人の文章」だからだ。よって「ラルゴ(古森義久擁護者)」の文は中学受験国語読解法では扱わない。中学受験国語読解法で扱えるのはここまでである。

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だが「政治」の場面では、より幼稚な意見が「あたかも自信満々に」表明されることはあまりに多い。よってここから読解法を変える。「呪的闘争」読解法だ。

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060924#1159035885
無用な対立を煽ろうとするとき、人は、抽象レベルを下げる。感情・情緒は個々人の実存に関わる「具体」なものだ。「煽り」は抽象思考を排し、前提する情緒を無反省に放出し、感情レベルの「具体」のみへ思考を閉じさせることを言う。「具体」が「情緒」から切り離されていれば、個別具体の検討は実りが多い。だが情緒と具体を不可分なものと前提し、この情緒に全面共感か全面対決のみを要求する、これを「煽り」という。

古森義久擁護者の発言は、「抽象レベルを下げる」作業そのものだ。「抽象」を無視し、個別具体だけに注目し、共通要素を認めない。それにより言語は生産性を失い、不毛化する。

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060924#1159035885
webではしばしば、特定スレッドを「潰す」とき、複数のIDを用いて、一人でこの軽蔑の応酬のエスカレートを自作自演で行い、我々の目の前に本当に横たわる深刻な問題から目を逸らさせる、ということが繰り返される。

古森義久(代表的なアメリカのスパイ)が売国行為を延々行なっている、という、「客観的に見たら」誰の目からも明らかな事実から、我々の意識を逸らし霍乱することが古森義久擁護者の意図であると読むのが妥当である。
売国奴ども国賊ども(古森義久安倍晋三中川秀直統一協会住吉会日本青年社など)はつるみあい、本来彼らにこそ投げかけられるべき罵詈雑言を、彼ら売国奴どもは彼らに敵対する相手に対し投げかけ、彼ら国賊は言語の不毛化と言語の倒錯化を日々拡大している。この言語の倒錯化を「呪的闘争」「概念霍乱」と私は呼ぶ。

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古森義久安倍晋三中川秀直統一協会住吉会日本青年社など国賊どもを擁護する豚どもは、日本から叩き出すべきであり、やつら豚どもは地獄の業火に焼かれるべきである。日本をやつらに私物化させてはならないし、させ続けてはならない。我々は牛のごとく頑迷に、牛のごとく粘り強く、やつら国賊を糾弾し続けるべきである。これを規範意識といい、公徳心という。「愛国」を看板とし他者に「愛国」を強制する者どもは、古森義久安倍晋三中川秀直統一協会住吉会日本青年社など、揃いも揃って国賊か、国賊にたやすく騙されるマヌケか、勇気の欠片もない臆病者であるかのどれかである。
蛇足しておく。「ラルゴ」は「こう比較する方が妥当だ」という例を出して自身のコメントを〆ている。そんなコメントの、いったいどこに生産性があるのか。皆無である。セザンヌの絵に「一点透視法で描けばいいのに」と評しているようなものだ。他者に対し「正気で言っているのかなあ」と発話した「ラルゴ」に対し、問う。「正気で言っているのか?」もちろん私が先に論証したごとく、「ラルゴ」は「抽象が理解できない」一種の知的疾患者、知的未熟者、幼稚な知性の持ち主である。それを「正気」と呼ぶのならそれもまた「正気」だろう。知的疾患と正気は両立する。さらに言う。豚は豚らしく振舞え。人間のふりなんかするな。

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