カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

バリ島で気づいたこと

1;俺の移動範囲はご当地高級ホテルとインドネシアが威信をかけた観光施設だけという制限があるが、トイレは見た限り全てTOTO製品だった。
2;ウォシュレット機能が日本とは違い、トイレ便器横に風呂のシャワーのミニチュア版みたいな小さい細いシャワーが併設してあり、それで手動でお尻を洗いなさい、という仕組みだった。
初めはこの便器用シャワーの存在に気づかなかった。気づいて使ったのは一度だけだった。
使用時には違和感があったが、日本に戻ってから考え直すと、あの便器用シャワーはあれはあれで合理的だ。インドネシア文化圏だとインド風にお尻を手で拭く習慣があっただろうからその発展型だろうなとか思う。
どこの国だったか記憶があいまいだが(イタリアのホテルだったような気がする)女性のビデ用に専用便器がホテルにあったのを見たことがあるが、それよりずっと合理的だ。
3;渋滞が多い。スクーターの交通量が多い。対向車線から大量にスクーターが来てビビらされる。交通マナーは日本の感覚だと悪い。
4;パトカーは青い。パトカーの点燈も青い。パトカーのサイレンはゲームの効果音、マリオの効果音みたいな感じで、サイレンだとは初め気づかなかった。
パトカーは有料で先導をしてくれるそうだ。たとえば結婚式の移動の際などにパトカー先導をお願いするそうだ。日本では考えられないことだが、あの渋滞を考えると合理的ではある。公共交通機関が貧弱でたぶん電車は存在しない。バスもどれだけ遅れるか判らない。なのでたとえば結婚式の時の移動は集団で各自自動車で移動するわけだが渋滞を考えると有料でパトカーに先導してもらう方が合理的だ。お国違えばいろいろ違う。
以上書きかけだけど、今日はここまで投稿する。
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バリ島へ行ってきた

1;
年末年始は我が観光業はほぼ一週間満室が続いた。
その最終日である1月5日(日)発、1月11日(土)帰還、のスケジュールで、妻と娘とバリ島へ行った。
このスケジュールは妻が決めたが、ちょっと無理があった。1月11日は土曜なので我が宿泊施設は満室だ。正確には少し空室が残っていたがこれ以上客を取らないよう予約サイトを設定して出かけた。
1月10日(金)に日本に戻り、我が宿泊施設の準備を1月11日(土)の午前中に行う方が順当だった。
昨年は老父の死後なので旅行は地味目だったので、妻の憂さを晴らすことをメインの目的として、少し無理目のスケジュールとなった。
このスケジュールに老母は不満を表明した。金曜日帰宅が順当だ、という。そのこと自体は妥当な意見だ。
だが、老母の不満の裏側には、いつも老母抜きで旅行していることもあると感じた。老父が生きていればともかく、老母一人で留守番というのはたしかに心細いものもあるだろうし、常に老母抜きで旅行しているというのはちょっと不自然感がある。
とはいえ、老母と一緒に連泊旅行というのは、俺も精神的に無理だが、妻も精神的に無理だ。正直言って、老母の顔を見ない時間が欲しくて連泊旅行しているからだ。老母を乗せて長時間自動車運転するだけでストレスで俺も死にそうになるし、妻も死にそうになる。
妻と相談した。来年は、鳩バスのような旅行で、老母を含め1泊くらいの旅行をしよう。「いつも老母抜きで旅行しやがって」という老母の不満を解消させる必要がある。また老母とは一度も旅行しなかった、と、娘に記憶させるのは宜しくない。鳩バスのような旅行なら、車中の老母の錯乱で運転事故起こす可能性もなく、どうにか俺と妻の精神も耐えるだろう。
老母連れの旅行では全く休息にならないので、老母接待の1泊旅行という「仕事」を終えたら、妻は娘と妻の妹夫妻とで何泊かどこかへ旅行してリフレッシュしてもらうこととしよう。
という来年の旅行計画を決めた上で、出発した。
1月4日(土)の夜のうちに成田まで公共交通機関で行って、前泊して、11(土)も公共交通機関で戻る方が楽かな、と調べたが、4日(土)の高速バスが満席でその計画は頓挫した。また4日より5日のほうが道路が空いているようなので、5日朝、家を発った。
ガルーダ空港で往復した。直行便で片道約7時間かかる。バリ島へ行った後現地ガイドの方から聞いたところ、フィリピン空港乗り換えのほうが楽で安かったらしい。もしも次回があればそうしよう。
2;
1/5から1/8まではVILLA AILへ宿泊した。趣味の良いコテージ型のホテルだ。
https://www.villaairbali.jp/
バリ島は赤道に近いので、気候は夏だ。おととし行った同じ時期のハワイはもっと肌寒い感じがあった。バリ島の空気は湿気が多い。ハワイの空気はもっと乾燥していた。
バリ島の1月は雨期だそうだ。現地ガイドさんによるとベストシーズンは6月だそうだ。雨季と言っても長時間の雨は降らない。特に滞在中は早朝にスコールのような雨が2時間弱降った程度で、ずっと晴天だった。俺たちは運が良い。
ハワイはアメリカの一部なので物価が高かった。日本は貧乏になったんだなあ、とハワイでは感じた。ハワイでは同時期に日本人客はほとんど見なかった。
バリ島はインドネシアなので物価は安い。現地民の一か月の収入は3万円ほどだそうだ。バリ島では日本の貧乏感を覚えることはなかった。バリ島には日本人客は少しはいた。
1/6から現地ガイドさんが運転するタクシーで移動した。現地ガイドさんは20年間ほど日本の水道工事関係で働いていた方だそうだ。日本へ働きに行ったのは水道工事会社社長とバリ島のサーファー仲間だったのがきっかけだったという。日本在住時に日本の漫才番組で日本語を覚えたそうだ。奥さんは日本人だそうだ。
バリ島には公共料金の自動引き落としサービスがなく、その点が日本での生活より不便だそうだ。
逆に公共料金自動引き落としサービスを実施する銀行があったらバリ島で老後生活する金持ちが増えると思うんだが、どうなんだろうね。
なお、旅行中、白人の姿が多かった。観光客も多いが住んでいる人も多いそうだ。ロシア人、フランス人、イタリア人、韓国人が多いそうだ。
バリ島は自動車交通量が多くバイクが多く、日本とは運転マナーがだいぶ違ってウィンカーをあまり点滅させない。日本と同じく右ハンドル車道左側だとはしばらく気づかなかった。
1/6はケチャを見た。バリ島についてはケチャしか俺は知らず、ケチャを見に行ったと言ってもいい。ケチャは中学生頃音楽の授業で聴いて「なんだこれは」と感じ、一度見たいと思っていた。
ケチャは現地舞踊を1930年代にドイツ人の提案で改変し観光用舞踊として発展したものなので、想像していた以上に観光用だった。
ただ衣装とメイクに萩尾望都テイストを感じたのは個人的発見だった。萩尾望都はたぶん『百億の昼千億の夜』執筆時頃にインドネシアヒンドゥー衣装やメイクをだいぶ参考にしたのだろうと想像する。
ケチャはたしかウルワツ寺院で見たが、予定より早く着いたので、ざっくりと寺院を見た後、ケチャが始まるまでの間、寺院境内のお茶屋さん的なところでわりと長い時間ガイドさんと話しして、ガイドさんの波乱な半生を聞けたのは良かった。
ケチャも雨天だと中止になって見れないことがあるそうなので、ずっと晴天が続いて幸運だった。
1/7はモンキーフォレストへ行った。ここも寺院だそうで、寺院のお参りもした。我が娘は「けものフレンズ」教育の結果動物好きに育っているのでオナガザルたちをずいぶん喜んだ。
モンキーフォレストの中に橋が2か所あったが、どちらも猿のトイレらしくて、猿のおしっこや糞の臭いがした。特に石造りの橋は手すりがあるのだが、その手すりに糞がしてあって、妻に手すりに触らないよう注意した。
その後は、棚田を見に行った。棚田で娘と有名なブランコをしたが、記念撮影時、手を放して後ろを見て、と現地の撮影者に言われたが、いやいやいや、この高所でそれは無理。無理やり後ろを見ようとして、頭に血が上って貧血起こしそうになった。
 こういうブランコ→ http://blog.livedoor.jp/balichili/archives/52100085.html 
1/8はバリ・サファリへ行った。オランウータンと記念撮影した。ゾウに乗って園内を回った。ここのショーは動物を使った本格的なものだけど、サーカスの動物ショー的な感じがしてそれが気になった。
ここまでで力尽きたので、以上投稿する。
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自分へかけた呪いが自分に返ってきている感覚

1;
俺は本来、良運を持って生まれてきたと思う。
15歳までの環境は酷かったが、それでも幼少期に祖父母から愛情を受けていたので、祖父母からの愛情がなかった場合よりはずっとマシだった。
母はいつも混乱して狂乱していたが、祖父母がなくなった頃から狂乱の度合いが桁外れになった。母は元々自己中心的で愛情薄い人で情緒不安定だったがあの頃からブレーキがなくなり、狂乱して過干渉が酷くなっていた。
19歳の夏以降秋ごろから、俺は母親からの仕打ちで心が壊れ、自分に呪いをかけてしまった。
それ以降、自分で自分にかけた呪いに囚われ、幸運を自分でドブに捨てるようになった。バブル期と俺の大学時代は時期が重なっているので、あの頃の浮かれた「空気」には違和感と疎外感があったが、大学や学問をあの頃信頼できたら、知的職業に進むことができただろう。実家のへっぽこで欠点だらけで規模だけバカみたいに大きい自営業は妹2号にはわりと相性が良かったので俺が継がないことを俺のほうで確定させて妹2号に継いでもらうのが順当だった。自分で自分に呪いをかけ、その選択肢を捨ててしまった。
その呪いが、今も自分に返ってきている。
東京で、「田舎」や母親と無縁で生活している頃は、自分にエネルギーを補充することができた。自己評価もエロマンガを描くようになって以降、表現規制反対活動したり、塾講師をしていた間は、自分へエネルギーを補充できた。他人は道理が通じる。自己評価も適切なラインになった。社会というものもある程度わかるようになった。
「田舎」へ戻って以降、自分へエネルギーを補充できない。社会からは隔絶している。僻地の自営業で地元に人間関係が俺は絶無なため、混乱して狂乱している老母と過ごす時間が長すぎる。
田舎に戻って、今年で10年目になる。だいたい7年目くらいから鬱症状になった。
2019年秋以降、大学の聴講をして、鬱症状が少し緩和した。
鬱症状緩和させるタイミングが少し遅かった。あと2年早く、せめて1年早く聴講を始めていたら、いろいろ違った。
2;
混乱して狂乱している老母からの過干渉の悪影響と、15歳までの悪環境で、俺は学校文化に本来馴染む性質を持ちながら、学校文化を軽視軽蔑する価値観を育ててしまった。ブラック企業そのままで老母の好きなヤンキー客ばかりの自営業と学校文化との乖離に挟まれ、自分の家庭・自営業と、学校文化は相性が悪かった。
思春期の頃からのオカルト趣味は、老母からの悪影響の一つだ。
で、姓名判断という悪趣味を俺は持っている。
俺の本名の運勢はそんなに悪くない。一人で何事かをなすというよりは、だれかと何事かをなす、というタイプの運勢で、対人関係が不得意であることと若いころ性格が尖っている相がある以外は悪くない。中年期からは運勢が伸びる相だ。
俺が筆名に使っていた「鎌倉圭悟」の運勢はもっと良い。悪運も幸運に転化させるという相だ。
ところで俺が地元の観光協会長になったとき、先代観光協会長が各種関連機関に俺の名前を誤字で報告した。
この観光協会長時代の俺の公式関係に出てくる名前は、姓名判断すると、悪相も悪相。精神障害系の悪相がてんこ盛りになっている。中年期運も晩年運も対人運も総運も全て悪い。
鬱症状になったのと、俺がその悪相まみれな名前で呼称されていた時期は重なる。ただの偶然なのだろうが、オカルト的にはつじつまが合う。
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聴講先が冬休みになった

聴講先が冬休みになった。ので今週は聴講に行っていない。
聴講しなくなったら、知的刺激がなくなって、「なろう」小説ばかり読むようになった。教養書を読もうという気力が湧かない。知的能力が衰えているというか、鬱症状が緩く再発しているというか。
聴講に行っていないと、朝から晩まで、正気ではない老母から理不尽な罵りを受けるばかりだ。俺が仕事をしていようがいまいが。
田舎での俺の環境は、知識や知性とは縁遠い。社会とも断絶している。
幼少期から青年期にかけて、俺はマンガばかり読んでいた。ここでの生活と俺とは相性が悪い。その状況を再現している。
幼少期青年期とは違うのは、50歳前後のあたりから、自分の脳味噌の働き、思考力のうちとくに先々のことを考える力がずるずると衰えているところだ。以前、自分には少しあると思った未来予測能力のセンスは、今の俺にはない。年齢的衰えと、社会と全く関わっていないことと、双方によると思われる。
聴講先までは自動車で片道1時間半弱かかる。自動車の運転ができる年齢の間は、できるだけ聴講を継続させないと、脳の衰えがかなり早く酷いことになりそうだ。脳を使うと長生きするとコリン・ウィルソンが書いていたのを覚えている。さほど長生きしたくはないが、娘が大学卒業するくらいまで俺があまりバカにならないよう、あまり娘に間違ったことを言わないよう、知的刺激を受けるようにしておきたいと思う。
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ルビ(ふりがな)が少ねえよ

俺はマンガを大量に読んでマンガのルビ(ふりがな)で漢字を覚えた世代なのだが、小学1年生の娘に本を与えようと思ったりコミック(漫画単行本)を与えようと思っても、フリガナのついている児童書・マンガが存外少なくて、どういうことやねん、次世代読者作るつもりないのか、と、感じる。
たとえば手塚治虫『ユニコ』を買い与えようと思ったが、フリガナがないので娘一人では読めない。
手塚治虫鉄腕アトム』にもフリガナがない。小学校低学年じゃ読めねえよ。
児童書『宇宙・地球いのちのはじまり』(理論社)にも、フリガナがあったりなかったり。この本の場合、推奨年齢が小学校中学年以上なんだろうが、全部ルビふれよ。どういう制限やねん。小学校低学年は読むなっちゅうんか。
みたいな。
中学生以下が読むことを想定しているマンガや児童書は総ルビ付・フリガナ付にするべきだと思うがどうか。
日本の小学校国語教育・漢字教育能力を過信しているのだろうか。過信できるほど能力高いとは思えないのだが。
http://kamayan.hatenablog.com/entry/20090414/1239655178
http://kamayan.hatenablog.com/entry/20090425/1240591589
http://kamayan.hatenablog.com/entry/20090426/1240674689
フリガナさえ振ってあれば、俺の娘もyoutube見る時間が減ってマンガや児童書読む時間が増えて将来のマンガ読者人口も増えると思うので、早急にこれはどうにかしてほしい。

ユニコ 特装版 (上下巻セット)

ユニコ 特装版 (上下巻セット)

なお、児童書『宇宙・地球いのちのはじまり』(理論社)は娘に買い与えるつもりではなくて、今聴講している大学の地球科学のスライドに出てきたので自分が読むつもりで購入した。大学生が読むんならルビ少なくて良いけどさ。想定読者小中学生でしょ。
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キャラクターメイキングとしての自画像

抗うつ剤は今でも飲んでいるが、症状が緩和したので、教養書もそれなりの量最近読んでいる。教養書を読む時間が増えると「なろう小説」や「ふたばちゃんねる」を読む時間が減る。悪いことではないだろう。「なろう」も「ふたば」も現実逃避と憂さ晴らしで読んでいる理由が大きいのだから。
ところで6月頃いったん憑き物が落ちた件を以前書いた。それについて少し書きおく。
6月に以前の大家兼友人宅へ泊ったとき、生前の老父のことと絡めそれまでの自分の半生を思い返してみた。
考えてみると老父は俺に強制をしたことがほとんどなかった。

1

我が家業がキャンプ場と釣り船屋をしていた頃、老父とよくボート運びの作業をした。
老母の俺への命令は昔から理不尽だったが、老父は理不尽な命令はほとんどしたことがなかった。
俺の進路について、老父は特に何も言わなかった。アドバイスも何もしなかったが、足を引っ張るようなことも特になかった。
学部選択に悩んでいた時、法学部を老父は提案した。それを聞いて俺は法律学向けじゃないから行くとしたら政治学科かな、と思った。
俺は生まれた時から僻地の自営業で生きて世界が狭く、ポンコツで手間ばかりかかる家業で児童労働させられる時間が長く、老母は当時たぶん更年期障害で毎日ヒステリー起こして理不尽な事ばかり俺に要求していた。世界が狭いのは俺もだが老母の世界の狭さはむしろ盲目的になろうという衝動が暴れていて俺はそれにつきあわされていた。
俺は当時老母の理不尽に従順に従っていたが、俺が学部選択に悩んでいるとき、老母は唐突に「弁護士になればどうか」と俺に言った。今思うに老父の言う「法学部」から老母が理解できた職業がそれだけだったのだろうと思う。
俺には弁護士という職業がイメージできなかった。
ポンコツで手間ばかりかかる家業で理不尽な児童労働をさせられていて、そのポンコツな家業を継ぐ責任を無駄に押し付けられ続け、周囲に大卒経験者がほとんどいなかったこともあり、俺は当時老母への反感が溜まっていたのでその提案を拒絶した。
なお老母は学部選択に悩んでいた俺に、「偉くなるな」と「政治にかかわるな」という要求をした。この二つの呪い*1は老父のいない時に俺に要求した老母の本心であり、法学部政治学科に進むという選択肢は俺の中から消えた。
以上の件は以前、書き方は違うがブログに書いたことがある。
俺の中でこの時のエピソードやその後のことを考え直すと、父は俺の進路に対して特に何も要求しなかった、と解せる。放任ともいう。俺の好きにさせたのだから良い父親だったと言える。老母の狂乱な過干渉を放置していたこと以外は。
老母は卑怯だから狂乱な過干渉を老父に見せていなかったかもしれないし、老父自身が優しい姉3人を持っていたから「女の人に任せておけば大丈夫」と信じていたようにも思う。父はその場を盛り上げたり人の手助けをしたりするのは得意だったが、我の強いところはなく、中年期の病気(肝炎)もあって商売のことも子育てのことも老母に任せていたというよりは老母の下僕のような感じだった。
父と俺はタイプがだいぶ違っていたので、父は俺の扱いに困っていたところがあるだろう。父はスポーツ万能、勉強それなり、人付き合い上手、というタイプで、俺は勉強はできたが運動音痴で人嫌いで本ばかり読んでいた。本は教養を指導してくれる存在がいなかったことと老母の無駄な制限の悪魔合体の結果、マンガとオカルト本と大衆SFとアニメ誌ばかり読んでいた。当時の田舎のオタクにはありがちな読書傾向ではある。

2

で、俺の半生を、RPG的に「どういうキャラクターメイキングを生まれる前にしたか」という視点で考えてみた。
基礎ステータスを、Aを最上、Eを最低として、大雑把にこんな感じにキャラメイクしたと思う。
■知力A~B 
まあ田舎のおっさんになって恥知らずになったんで、ちと過去の自分をうぬぼれて自己評価高めに申告させてくれや。
ただし知的環境は15歳までほぼ最低水準。12歳ころまで知識の吸収源を学研の「ひみつシリーズ」に限定された。文化的環境は一切なく塾もなく中学の教員の能力が低かったので英語力はゼロになった。
15歳ごろまで「頭が良い」という言葉は俺に対する憎悪の言葉・侮蔑語だった。19歳ごろでも侮蔑語として家族から使われた。
18歳以降知的訓練をできる環境になるよう予定してキャラメイクした。ただ19歳の時老母の狂乱な過干渉のために鬱状態になって知的訓練を放棄してしまった。
知的訓練を放棄してもその後それなりに社会で他人から認められたのだから、素の知力はそう悪くはなかったのだろう。知的訓練をしっかりすれば知的スキルをたくさん得ることができ、レベルアップできただろう。レベルアップを繰り返せる条件は後で考えると存在した。レベルアップしないまま過ごした。残念なことだ。
50歳前後になったあたりで鬱症状もあってここ数年知力は衰えている感がある。知力と一口で言っても色々あるね。
■体力C~D ただし8歳ころから12歳ころまで肝炎によりデブとなり運動能力ゼロとなった。デブで運動音痴なため自己評価がかなり下がった。これはアクシデントだ。肝炎は死んでもおかしくなかった病気だから死ななかったことは幸運だ。それ以降は人並み。
■闘争心E~B- 暴力的闘争心は25歳ころまで最低レベルEだった。中年期に政治的闘争心がレベルアップした。B-くらいまで
■芸術センスC+~B- ただし文化的環境は18歳ころまでほぼ最低だった。そのため音楽スキルゼロ。小学校時代は絵を描く授業が当時ずいぶん多かったのと、マンガ好きだったことから画力スキルは+1~2程度。現役エロ漫画家していた時点で少しレベルアップして+2から3程度。文章力スキルはここ数年衰えてきたが画力よりは才能あったと思うので+4程度。人に説明する能力は少しボーナスがつく。ついた。かつては。今はレベルダウンしている。社会から隔絶して生活していたことと文化素養がないことからプロット作成スキルゼロ。
■総合運A 
0歳から11歳ころまでは祖母祖父の愛情を受けた。このため情緒の根底が正常になる。
4歳から15歳までの同級生運は最低。人嫌いになる。キャラメイクの時にはもう1週ほど早く生まれる予定だった。そうすればもっと穏やかな環境だった。俺が1歳まで暮らしていた「離れ」には似た年代の穏やかな男子が数人いたので、キャラメイキング時点ではその数人とは生涯近所づきあいする予定だったのだが、1歳の時に父母が村から隔絶した僻地で事業を始めそこで生活するようになり、村との人的交流が俺はほぼゼロとなった。これはキャラメイキング時に予想していなかったアクシデントだ。
16歳から18歳までの同級生運は普通。
19歳以降の友人運対人運は俺は振り返ると物凄く恵まれていた。
順当にいけば、俺は後輩が紹介してくれた大手アニメ会社に就職し、後年になって気づいたがどうも俺に淡い好意を持ってくれていたらしい前述とは別な後輩とたぶん結婚し、田舎の家業は接客業に向いた妹2号に継いでもらえば、これが一番自然な流れだった。そうなったとしても老父はそれなりに喜んでくれただろう。
それ以外にも他の後輩から仕事の誘いが2度ほどあったし、オタク向けの書店の店長にならないかという誘いがあったし、香港で漫画の仕事をしないかという誘いもあったし、塾でも正社員の誘いがあったし、大手出版社で書籍を発表しないかという誘いもあったし、田舎に帰らないでそれなりにしっかりした生活をするチャンスがいくつもあった。俺は19歳の夏に家業で、というか老母から豚のような扱いを受け自己評価が豚以下になっていたので、それらのチャンスを全部棒に振った。
愛郷心E 故郷には何の愛情も愛着もない。友人もいない。文化もない。家業にも愛着がない。老母には恨みが募るばかりで同居していることが鬱の原因である。19歳以降故郷に帰らないことをキャラメイキングの時想定していたのだろう。
■財運B
上記のように出鱈目で幸運をどぶに捨てまくったが、運よく、現在は人並みの収入、人並みより少し上の収入になっている。生活は退屈と不愉快で死にそうだが。
順当な別な人生を歩んでいてもほぼ同じくらいの収入になれた可能性がある。退屈で死にそうということはたぶんなかったと思う。
■名誉運C+
知的訓練していないエロ漫画家という立場から表現規制反対運動というミームを作れたのだから、別な人生ではもう少し名誉のある何かに達せただろうな、とか思う。
塾講師としては人気のある塾講師だったから、まともに勉強していれば、最低限でもそこそこ条件の良い高校の教師くらいにはなれただろうな、とも思う。条件の良い高校教師なら教養書の何冊かを発表することもできただろう。注目を浴びる才能はそれなりにあったと思うし、前述のように説明能力はそれなりに高かったと思う。
ただし今生活している田舎ではなにしろろくに対人関係結べないし結ぶ気力もわかないのでレベルダウンして名誉運D-くらい。
■塾講師としての才能A
■漫画家としての才能C~C-
■観光業自営業者としての才能C-~D

3

順当な別な人生を俺が歩むことの方が老父のむしろ願いだっただろうな、とか、思った。
といった感じで「生まれる前に予定していたキャラクターメイキング」を考えてみたら、憑き物が落ちた。
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*1:あと一つ、「彼女を作るな」という要求もあった。我が老母は酷い毒親だ。他二つはともかくとして「偉くなるな」と言って大学に送り出すバカ親がどこにいる。ここにいた。俺の老母だ。俺の娘が生まれて初めて老母が抱いた時にも「偉くなるな」と呪いの言葉を俺の娘に吐きやがった。

9月から11月にかけての、昔の友人関係

1;塾講師時代の同僚が8月末に逝去した。突然の心不全だったそうだ。
彼は俺より10歳以上若かったはずだから、40歳前くらいだったろう。
塾が上海に進出し、上海の校舎で働き、上海の宿舎に帰宅後急逝、という感じだったようだ。
塾時代の同僚からその連絡があり、9月後半に東京で通夜が行われたので参列した。
2;塾講師時代最後の年に担当した女生徒が、バイト先の友人たちと、10月20日頃、当施設に一泊した。一流大学の法学部3年生になっていた。
彼女は中学受験終了直後、一度当施設に来てくれたことがある。
俺という人間が何人かにとって心に残る講師であったことを嬉しく思う。あれはあれで俺にとって天職だったんだなとか思う。
ところで10月20日って平日(日曜)なのにやけに宿泊客が多かったが、都民の日かなんかだったんだろうか。
3;たしか6月か7月頃、昔、漫画家時代に仲良くしていた友人に連絡を取った。
彼はアニメの世界に進んでいたが、進ませた元凶は俺だ。俺は彼に謝罪をしなくてはならないという感情が凄く強くなっていた。鬱病による情緒不安だろう。連絡を取った上で、謝罪の気持ちもあって、彼にお布施的な献金をした。
彼はアニメの世界で順当に立身し、今年から監督業をなさっていたそうだ。
秋になったら時間ができるから、その頃一度会おう、という話を彼からしてもらった。
11月になって、彼から電話が来た。彼のほうは仕事が一息ついて時間が取れるようになったそうだが、俺は鬱病緩和のための大学授業聴講をできるだけ休みたくないので、とりあえずまた時間が合うまで先延ばしにしよう、という話になった。
12月のうちに会いに行けないかと俺は俺で日程確認したが、どうも年内に会うのは無理なようだ。
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