カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか

マニアはしばしば戦術レベルに拘泥し、戦略レベルで敗北する

以下メモ。
どんなジャンルでも、年季だけ入ってセンスの悪いマニアは、全体より部分、大局より末梢、戦略レベルより戦術レベルに拘泥しがちである。
ロビー活動も、マニアが行なうより素人が行なう方が多くの場合望ましい。マニアは余計な情報を蓄積し、それがため全体より部分、戦略レベルより戦術レベルの目論見に振り回されがちとなる。マニアはしばしば自分が偶然詳しくなった「部分」を「全体」と錯覚し、「部分」と「全体」の区別がつかなくなる。末梢に拘泥したらすでに戦略レベルで敗北している。無論、「部分」と「全体」の区別をつけていれば情報が多い分マニアの方が有利ではある。しかし「部分」と「全体」の区別を適切につけている人は、通常、「マニア」とは呼ばれない。
ヒットしている作品にブーたれる年季だけ入ってセンスの悪いマニアは、全体より部分、大局より末梢ばかりに着目し、「受けている」作品の末梢をあげつらうことで自分の貧弱な自尊心を守ろうとしがちである。その時点で戦略レベルで敗北している。マニアから見て稚拙に見えるものも「受けて」いるものには多くの場合、戦略レベル的に見るべきものがある。他者の作品をこき下ろすことにばかりエネルギーを使うマニアは多くの場合、創作自体をそもそも理解していないか、自分の創作の苦しみの悲鳴を不適切な言葉で上げているかのどちらかである。
初音ミク」の登場により空前のDTMブームが到来したこの商機に「初音ミク」を揶揄誹謗することにばかりエネルギーを注いでいる自称DTMerは、作品を作る能力をそもそも欠いているか、不適切な言葉で悲鳴を上げているか、「初音ミク」の存在が職業的に望ましくない関係者かのどれかである。「初音ミク」によって登場した新たな才能群はブーたれる暇もなくこの新ジャンルを、観客が驚くほどの速度で開拓し続けている。文化には天才を多数輩出する一時期というのがある。文化的なインフラストラクチャが整ったとき才能群が一斉に開花する文化的臨界点と呼ぶべき現象が起きる。19世紀イギリスがそうであり、18世紀フランスがそうであり、春秋戦国時代の中国がそうであり、50年代のアメリカSFがそうであり、日本第一世代SF作家が登場した時期がそうであり、手塚治虫トキワ荘の時代のマンガ文化がそうであり、DTM文化の場合、今がまさにそのときである。
絵という芸術では、部分より全体に注意を払えと指導されるのは基本の基本であり、それはその他のあらゆる文化活動に共通する。他の芸術でも、学問でも、人間の行なうあらゆる活動に。
しばしばマニアによる国防論は正規軍対正規軍の正面衝突を前提とした戦術レベルの話だけに限定されがちであり、マニアの言う「現実的」という言葉は、戦術的「現実」性をのみ指し、戦略的には非現実的であることが多い。十五年戦争での国防論や政治言説や当時の日本現代史が「判りにくい」理由の一つは、軍事・政治ともに、指導者が皆、末梢にばかり着目し、戦術レベルにばかり拘泥し、それゆえ戦略レベルの統一性がないためである。その時点で戦略的に敗北していた。
年寄りがしばしば保守・反動化するのは、自分が接したごく狭い知見と経験という「部分」を「全体」と錯覚し、思考がマニア化し、戦略レベルの発想を拒むからである。若い者がしばしば保守・反動化するのは、自分の乏しい情報と狭い見識という「部分」を「全体」と錯誤し、発想がマニア化し、戦略レベルの思考を想像しないからである。反動化とは、市民生活が国家や特権者に戦略的敗北を喫することを意味する。
以上、メモ。

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