カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

施設改築について夢想すること

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我が老母さまはイソップ寓話の「蟹のお母さん」そのままな方で、延々「お前らは横歩きしてみっともない、ブクブク」と我が子をこき下ろしつつ横歩きなさる方だ。一緒に生活しているのは苦痛だ。
ところで我が宿泊業に関して我がお母様の経営戦略は「安売り」主義であり、「客に対しては手抜き」「日々の行動はムダの塊」というのもセットとなる。
後者についてなのだが、たとえばウチは宿泊業なのだから、アメニティを整えたり食事サービスを提供したり、みたいなのは客の側はふつうに要求するんだが、我が老母は「手抜き主義」なのでそういうサービスを客に提供するのは拒む。食事提供に関してはいずれ解決せにゃならんだろうが、民宿時代に揃えていた什器や食器洗い機などを老母様が全て処分済みであり、今からそれらを揃えるのはけっこう出費がかかり、それ以前に「店舗」が食事提供サービスに耐えられる造りにあまりなっていない。
「日々の行動はムダの塊」についてなのだが、我が老母様がウチの施設の3分の2を独断で造られたのだが、人間の動線がムダに混沌混乱するように作っている。日々の生活でも以前何回も愚痴ったように、人が通る場所にムダな障害物を置きたがるクセがあり、老母が動くたびに我々の動線がグチャグチャに混沌となり、一つの行動をするのに物凄くムダな動きが必要となる。これは老母が触るすべてのことに関して、物理的だけでなくあらゆることで一貫している。なので老母は自覚がないけど発達障害系のアレであろうと思われる。動線が混沌となりムダな動きを強いられることで「多忙で働き者の私」という自己イメージを強めるようだ。
我が老母様は「忙しい」を美徳であるかのように繰り返し主張するが、「忙」とは「心を亡くしている」ということで、つまり落ち着いて自分を振り返ることを全力で拒絶しているということであり、実際には老齢な老母はたいして「忙し」くはないのだが、「忙し」くないという事実に直面すると「自分は必要とされない人間なのかもしれない」という恐怖感が老母を駆り立てるので、ムダに周囲を混沌とさせ「忙しい」という自己イメージを強化させようとする。そのため老母が動くたび家は雑然として汚らしくなる。
こういう老母が期待する客というか、老母と合致する、相性が良いのはヤンキー系の客層で、老母が経営している間、ウチはだんだんとヤンキー系の客層が増えていった。
俺はヤンキーは嫌いだ。

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施設についてこう直したい、という私の意欲は、相当涸れているし、基本的な施設は私が不在な間に老母が造ってしまって、費用対効果とか考えるとそれをそのまま維持するのがまあ賢明であるので、この老母色の施設を維持することに私の余生は使われる。そのことがまた意欲を涸れさせる。こんなに経営者が意欲を欠いていたらそりゃ商売にもいい影響が出ないよ、とは思う。
ところで、「こう直したい」というか「将来的にこういうコンセプトにしたい」という件については、我が老母の同意共感が全く得られないということで頓挫して長いのだが、そもそも「コンセプト」という言葉も当然として概念も通じないのだが、それは主に我が老母の想像力の根本的欠如に原因があるのだが、つまり「将来」というものが我が老母には想像できず、目の前に存在しないものを想像できず、どうすれば同じ空間をより人にとって快適にさせるかということを老母には想像できないということに由来するんだが、それはそれとして、本日、犬の散歩をしているときに、「あ、完成図のパース画を描けばいいじゃん、俺、まあまあ描けるし」と思い至った。絵で見せれば少しは伝わるだろうし、老母に伝わらなくても嫁には今以上に伝わる。
客への案内も「漫画で描きゃ今よりもっと客に伝わるよな」と嫁と話をしていたところだった。描くことは能力的にはできるのだが、気力の問題だ。
私の生活は、主に老母から要求される細々とした雑用でほぼ全て磨り減らされている。それは30年前も20年前もそうだった。今もそうだ。老母のキャラはエナジードレインするゾンビ系吸血鬼系の特殊能力者で、ここにいると日々エナジードレインを食らう。
まあ、それはそれとして、7月くらいまでは、老母からのエナジードレイン攻撃さえ別にすれば、物理的に時間はないわけではないのだから、パース画を描くようにしたいと思う。

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