カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

〈基本語彙〉が思考を制約する、についての思いつき

■[メモ]基本語彙、その他 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060720#1153361655 の続き。

1;情緒や思考の表現は、各人の会得した「基本語彙」を通じてなされ、基本語彙に制約される。語彙の少ない人は自分の考えを表明することに困難が発生する。
「基本語彙」は複数のジャンルに別れ、ジャンルを横断できる「語彙」は必ずしも多くない。ジャンルにはたとえば以下のようなものがある。例。オタク系語彙(当然その中はさらに細分化され、左端と右端のジャンルでは基礎語彙が異なり、対話が困難である)、オヤジ雑誌系語彙(体液に関わる事柄が多いことが特徴。体液とは血と汗と涙と精液である)、サブカル系語彙(オタクはサブカルの下位ジャンルだと個人的には思うが、ここでは「趣味よさげな」サブカル、という意味で別枠としておく)、学術系語彙、ヤンキー系語彙、「『諸君!』『正論』」系語彙。その他。
2;発話・表現しようという意欲には、背景となる情緒・衝動がある。衝動に身を委ねることは快楽である。しかし衝動に身を委ねると、目的を達成しない。
発話・表現には達成目的がある、と意識することが表現を鍛える。目的を意識することを「自覚的」と言う。
発話・表現は、洗練させることでより目的を達成しやすくなる。
3;衝動は人格と不可分である。情緒は衝動の一発露形態である。人格から見ると、衝動は外から自身に向かって襲い来る。人格は衝動自体を制御するのはたぶん不可能ではないが困難である。
4;表現・発話を制御する精神を仮に「理性」と呼ぶ。「理性」は鍛錬可能である。「語彙」を増やすことはその一つである。「理性」の練度により、情緒や衝動にどのくらい振り回されざるを得ないかの限界値が変わる。練度が低ければより多く情緒に振り回される。より情緒に振り回された表現は洗練度が低い。より情緒に振り回されると、発話の目的を見失う。洗練の努力とは、情緒に対し距離を置く、ないし情緒とのバランスを試みることである。この努力を放棄すると、主観的には快楽ではあっても、たいへん無様な発話・表現となる。
5;衝動や情緒自体は、しばしば当人自身には、リアルタイムでは観測不能である。衝動や情緒には以下のようなものがある。不全感・不満感、臆病、その他。衝動や情緒を自ら観測し直すことを「反省」と呼ぶ。
6;衝動は人格と不可分である。人格には基本態度・「性根」と呼べる部分が存在する。「性根」は自己イメージと「道徳観」から成る。ここで言う「道徳観」は人格形成の最初期に得たものを核とする、社会(世界)へのイメージである。
他者を誹謗することに躊躇のない道徳観、それを忌む道徳観。道理への態度、「正義」という感覚の内容。自分を強者と思っているか・弱者だと思っているか。その内容。
7;自身の蓄積した語彙への解釈は、自分をどのような存在であると解するか、自己イメージ・自己規定により、鏡面的に規定・制約される。

いかん、ゴチャゴチャし過ぎて整理に失敗した。もっと綺麗に整理できるはず。
ざっくり整理し直してみる。
1;表現と思考は獲得語彙に制約される。
2;表現は衝動に制約される。衝動はある程度統制可能である。
以上。とりあえずはこんなものかな。このエントリ、何を言わんとしているか意味不明ですね。失敗作ですがとりあえずアップしておきます。

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