自民党的弁論術/没論理弁論術
自民党議員は共通した弁論術を持っている。つっこまれどころを先に自分(自民党議員)がダラダラと喋り、「だから」という接続詞をムリヤリくっつけて、「**しなくてはならない」と言う。これにより、「論理的な対話をオレはするつもりはない、呑み込め」、と、言外に要求する。仮に「没論理弁論術」と呼ぶ。
この「没論理弁論術」は論理性がないからアホの塊みたいな論旨になるが、アホの塊のごとき「没論理弁論術」にいかに対抗するか、という「政治の基本」は学校では教えていないから、「おインテリ」なかたほど「没論理弁論術」にわりあい簡単に屈服する。
「没論理弁論術」への対抗には、牛のごとき粘り強さと、根性が必要である。「没論理弁論術」とはそれ自体「牛歩戦術」なのである。こちらが諦めるのを敵は待っている。だから敵以上に牛のごとく粘り強くなる必要がある。
議論とは、勝ち負けを競うものではない。議論とは情報の量それ自体を競うものでもない。
学問の専門家としての訓練を積んだ人同士でならばある程度公正な「審判」が期待できるが、とくに日本で政治に関連する場では「審判」機能が常に不全であるから、公正な勝敗の判定はそもそも期待できない。それゆえしばしば日本ではより恥知らずな方が「勝利」しがちであり、より自己に対し高い要求をする側が、つまり自身の陶冶に真剣な側が「敗北」しがちである。だがこの悪しき因習は改められなくてはならない。この因習が継続する限り、日本の知性は刻々と劣化する。
議論とは、究極のところでは、人格と人格のぶつかりあいだ。と、私は思う。議論を見た第三者にとってより知的刺激が多く、より得るところの多かった発言者が、より議論ならびに日本の知性と理性の向上に貢献する。それを信じて、牛のように粘り強く書き続けるべきである。
頭の回転の早い人間は案外腐るほどいる。それを賢さだと錯覚している人間も腐るほどいる。だが適宜牛のごとく粘り強くなることを習得できている人間は意外に貴重だ。そして日本に必要な理性と知性は、牛のごとき粘り強さのある知性であり理性である。
ヒトラーとの交戦にチャーチルが勝利したのは、ドイツに降伏することをチャーチルが牛のごとく頑迷に拒んだからだ。チャーチルが頭の回転だけ早い人物だったら、第二次大戦は、ドイツの勝利になっていた。このことから、教訓を導かなくてはならない。 一方、同時代人の近衛文麿は、最高の教養を蓄積し、当時の政治家の中で最も先を見る知力があったが、豆腐のごとき根性なしであり、日本を滅ぼした上に日本を滅ぼした責任が自分にあるということすら気づかない痴呆だった。痴呆であることと「おインテリ」であることは両立する。
我々に必要なのは、牛のごとき粘り強さと、牛のごとき根性である。
幸いにしてかどうかはわからないが、安倍晋三というバカボンは、この「没論理弁論術」すら、さして巧くない。腸の弱い人間は堪え性が乏しいものだ。