中山成彬関係メモ
留守してネットに繋げないでいる間に色々政界であったようなのでメモしておく。文教族ってことごとく痴呆ではあるのだけど。
1 経緯
http://www.asahi.com/politics/update/0927/TKY200809260383.html
「日教組強いと学力低い」中山説、調べてみれば相関なし
2008年9月27日3時1分
「日教組(日本教職員組合)の強いところは学力が低いんじゃないか」――文部科学相時代に全国学力調査を提案した中山国土交通相が、テストで何を調べたかったかについて、こんな「本音」を明かした。「現にそうだよ。調べてごらん」。しかし、データをたどってみると、成績トップの秋田の日教組の小中学校組織率が5割超で全国平均(34.1%)を大きく超えるなど、全体的な相関関係はうかがえない。現場の先生も「短絡的」とあきれ顔だ。
「日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になるのですよ。だから大分県の学力は低いんだよ」
教員採用不正事件を引き合いに出しながら中山氏がやり玉にあげた大分は、小中学校の日教組の組織率が6割を超える。今年の全国学力調査では、小6、中3の全科目で、平均正答率が全国平均を下回った。この点だけをみれば発言は「当たっている」ようにもみえるが、科目によって結果はばらつく。小6国語Aでは全国平均と2.9ポイントの差が付いたが、小6算数A、中3国語Aでは、わずか0.2ポイント差だ。
では、調査の成績が良かったところはどうか。中山氏の出身地で選挙区でもある宮崎は、小6の2科目と中3の全科目が全国平均を上回るまずまずの成績で、組織率は1割未満。
ところが、小6の全科目でトップ、中3もすべて上位3位に入った秋田の組織率は5割以上。組織率が9割近くと全国トップを誇る福井は、中3の3科目で1位だった。「中山説」では、成績の低いところは日教組が強いはずだが、小6、中3の全科目で最下位だった沖縄の組織率は4割弱にとどまる。中3の全科目でワースト2位だった高知に至っては1割に満たず、何ともバラバラだ。
http://www.asahi.com/politics/update/0927/TKY200809260383_01.html
東京都内の中学校長は大臣発言に対し「短絡的だしピンぼけだ。だいいち日教組にそんな力はないのではないか」。ある自治体の教育長も「日教組にどんな恨みがあるか知らないが、個人的な思いを国政に反映させるのはとんでもない」。
中山氏はインタビューで、自説が確認できたとして「学力テストを実施する役目は終わった」とも話した。
新潟県の小学校教諭は、調査に疑問を感じながらも、学力向上に生かそうと励んだ。「地域で成績の差は確かにあるけど、それを改善するのが調査の目的だったはずだ。頑張ってきたのに、あの一言はないだろう」と憤る。
沖縄県の小学校教諭は、調査の前、放課後の補習に追われた。テストのための勉強で、とても児童の学力がついているとは思えなかった。「やると言い出した本人〔中山成彬〕がもう必要ないと気づくくらい無駄なテストなのだから、早くやめた方がいい」
◇
対象学年の全員を対象とする全国学力調査のそもそもの発端は04年11月。当時文科相だった中山氏自身が改革私案「甦(よみがえ)れ、日本!」で導入を表明したことだった。当時は目的について「競い合う心や切磋琢磨(せっさたくま)する精神が必要」と説いていた。
その直後、国際学力調査で日本の順位が落ちたことなどもあり「学力低下問題」への対応策として急浮上。05年6月には、小泉内閣の「骨太の方針2005」に盛り込まれた。同年10月の中央教育審議会の答申は「子どもたちの学習の到達度・理解度を把握し検証する」と明記。国策として統一的に学力の様子を調べる必要性が強調され、毎年60億円かかるテストの実施へと進んでいった。
今回の発言について、文科省には「あれは前からの持論だから」と冷めた受け止め方をする向きが多い。「別の役所の大臣だから」「『信念』をどこまでも語っちゃう人」「免疫できてます」。担当者の一人は「組合がどうのという目的はないし、役目が終わったということもありません」と話した。
2 適切な指摘
http://black.ap.teacup.com/despera/339.html
2008/9/27 「戦後教育の垂れ流す害悪について」
さて、中山成彬国土交通相のお戯言である。成田空港の整備方針に関して、「ごね得というか、戦後教育が悪かった。自分さえよければという風潮の中で、なかなか拡張もできなかったのは残念」 一通り怒ったあとで、ハタと考え込んだのである。「戦後教育が悪かった。」では、三里塚空港問題で、戦後教育を受けた結果、「悪かった」というのは、一体、誰のことなのだろう?
三里塚闘争の、闘いを始めた人々の名前を検索し、生年が確認できるものを拾ってみた。
大木よね 1907年生まれ 戸村一作 1909年生まれ 若手のほうで 熱田一 1920生まれ 北原鉱治 1922生まれ
「戦後」というときのは、普通は1945年に終わった戦争を指すと思われるが、1945年にはこの中で一番若い北原鉱治も23歳。三里塚闘争の、どこらへんにどう「戦後教育」が係わり合いがあるというのだろうか? 中山成彬の言う「戦後教育の結果、自分さえよければという風潮」の人とは、一体、どのような世代のことをさすのか?
http://www.nakayamanariaki.com/profile/index.html 中山成彬 昭和18年6月7日生小学校に入学が昭和25年、東大卒業が昭和41年。
中山成彬こそが、「戦後教育」の第一世代だったのである。
この人、ラサール高校→東大法学部→大蔵省→代議士→大臣 という、戦後の公教育体制のなかではこれ以上はないという至上のエリートコースを歩んだ人物なのである。これだけ脳味噌スカスカの大馬鹿野郎の、人前で喋らせたらあかんレベルの抜け作が、至上のエリートコース歩んで天下国家を担う大臣になってしまうというのは、確かに、戦後公教育体制の極めて重大な欠陥というしかないであろう。
もうひとつの「失言」を見てみよう。「日本は単一民族」。中曽根首相が1986年に同趣旨の発言して、大問題を引き起こしたことを、こいつは知らなかったのだろうか? 同じくプロフィールを見てみよう。 昭和61年 衆議院初当選 こいつは、自分が国会議員に初当選したときに、どういう問題が起こっているのかを知らなかったのだろうか? 北海道ウタリ協会がこの件で抗議をしている。ウタリ協会の加藤忠理事長は「驚きだ。同じ発言が再三再四出ており理解に苦しむ。どういう意図なのか」と不快感を示したのに対し、中山氏は「舌足らずの発言で不快な思いをさせ、おわびしたい」と謝罪した。
http://www.47news.jp/CN/200809/CN2008092601000784.htmlなにがどう「舌足らず」なのかさっぱりわからないが、これもやはり戦後教育の害悪に毒された中山成彬なのでしかたがないのだろう。こいつは更に宮崎で念を押してタワゴト吐いている。
大臣になって一番大事な仕事は、美しい古里と、安心・安全で住むことができる国土を子や孫たちにバトンタッチすること。
三里塚の農民も、美しいふるさと、安心・安全で住むことができる国土を子や孫たちにバトンタッチしたかったであろう。それを不可能に追い込んだのは、一体誰なのか。
追記 朝になったら辞めとった。このおっさん、大臣在任期間5日のうち、3日失言ゆうとってんな。
3 指摘へのweb世論
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://black.ap.teacup.com/despera/339.html
# 2008年09月28日 hituzinosanpo 「単一民族」国家という幻想は、戦後に できた神話ですしね。『単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜』http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0528-2.htm
# 2008年09月28日 mats3003 同じ戦後教育を受けた人間として、この存在〔中山成彬〕を恥ずかしく思う。
# 2008年09月28日 koyhoge 中山元大臣そのものが、戦後教育の大いなる失敗作だったという指摘。するどすぎる。
# 2008年09月28日 Britty 「中山成彬こそが、「戦後教育」の第一世代だったのである。」/成田闘争の地元側はみな戦前・戦中派。/「自分がこんなに教養がないのは日教組のせいだ」というわけですね、わかります。
# 2008年09月29日 so1944 自爆史観
# 2008年09月29日 rna 政治 「中山成彬こそが、「戦後教育」の第一世代だったのである」戦後教育ヤバい、マジヤバい!これ以上はない説得力!
日本の教育がアレなのはパー揃いの文教族にほとんどの責任があると思われ。ところで日本の文教族のドンは森喜朗大先生でいらっしゃります。痴性溢れまくり。もちろん森喜朗先生も戦後教育世代でいらっしゃいます。森喜朗先生の選挙区は辻政信大先生の地盤でいらっしゃいますが。