カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「観念論」対「事実」の図式、「人権」対「表現の自由」の図式、補足

1

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090614#1244980545の続き。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090614%231244980545
id:furukatsu やっぱ、戦術的には下策なのか。しかし、人権問題として訴える連中に対して事実を理由に批判をそらし続けるのはどうなのか? まぁ、でも、その方が正しいのか。

第一文が意味不明なので、説明を請う。
第二文について。「悪を想像する」ことと「悪を実行する」ことは別である。「悪の実行」は規制されるべきであり事実規制されている。「悪の想像・悪を観念すること・悪への想像力」は規制されてはならない。「悪を想像すること・悪を観念すること」と、「善を行うこと・悪を実行しないこと」は、両立する。「悪による被害者」は擁護救済されるべきである。「悪による被害」の加害者はかなり多くの場合、「悪への想像力」自体を欠く。「無謬(悪への想像力を欠き、悪を自分以外のものとして切断操作すること)」は悪の温床となる。
この文章は「観念」的過ぎるので、事実と事例をもって示すほうが通じやすいのだが、とり急ぎメモのみ。
一部の人にだけ通じる事例を以下。ペドファイルは大犯罪者から聖人までいる、と言われる。ペドファイルという志向が「悪」だとして、ペドファイルという志向はしばしば「悪への想像力」自体を拒む母親の家庭にて発生する。「悪への想像力」自体を拒み「悪を実行する」ことは可能である。よって「悪への想像力」を規制統制することは「悪を規制統制」することに繋がらない。この事例もまた「観念」的過ぎるので「事実」を積み上げるほうが色々話が早い。

2

保守系言説に言う「人権」は「平等な人権」「近代的人権」を意味しない。保守系言説での「人権」とは「(宗教的)道徳」の言い換えである。「(宗教的)道徳」は実際には、多くの場合「(平等な)人権」に対立する。
保守系言説の枠で「人権」という語が出てきた場合、「(宗教的)道徳」と「(平等な)人権」という二つの意味が錯綜し、その語に付き合うと言論戦は理性的に展開しなくなる。「矯風会」は「(宗教的)道徳」の意味で「人権」という語を多くの場合用いている。よって「矯風会」周辺の持ち出す「人権」という語は「釣り針」だと認識し、それを避けるべきである。言論戦にて攻撃する側(今回の場合は矯風会とイクオリティナウ)がそもそもその語(今回の場合「人権」)を不正確な意味で使用している時に、その語を論戦相手が使用するのは愚策である。したがって、「人権」対「表現の自由」という図式は最も避けるべきである。実際は「(宗教的)道徳」対「表現の自由」だからである。「(宗教的)道徳」対「表現の自由」という図式は、アリである。

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