カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

教科書は「読み本」か「授業書」か

読書猿から以下メモ。

 http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-65.html
 アメリカの教科書は、日本のものに比べると、カラフルでグラフィカルで、厚くて重い。大学レベルでもそうだが、中等教育の段階だと、この差がもっと大きくなる(だから多くの州で、教科書の購入者・所有者は州や自治体で、教室に備え付けで、生徒はそれを借りて使うというシステムである)。
 だが一番の違いは、アメリカの教科書が、生徒が自分ひとりで本文を読み,図を見て理解できる「読み本」タイプであり、教師が授業で補完しないと学ぶべき内容が完成しないタイプの、いわゆる「授業書」ではないところだろう。
 日本でも、教科書は「読み本」であるべきか、それとも「授業書」であるべきか、ということが論じられてきた経緯がある。結果、少なくとも高校までの教科書は、薄くて情報量が少ない、「授業書」であり、それだけでは生徒の独習が不可能(といえなくとも難しい)ものになっている(図はかえって実際の観察眼を損なうと考えて,いっさい図を掲載しない教科書まであった)。
 このあたりが原因で、日本では「教科書=つまらない本、読んでも仕方がない本」といったイメージが定着してしまってるんだろうか?
 時代とジャンルと対象者によっては、市販書で「読み本」の代替物として機能していたものが存在したのだけれど(私の世代だと学研の「ひみつシリーズ」とかね)。 まあ、「参考書」というのも、そういうニッチ狙いかもしれない。

以上メモ。「論じられてきた経緯」について知りたいなあ、と思った。こんだけ豊かな社会になったのに、少なくとも50年代ころの中進国状態ではなく世界トップ集団の先進国になったのに、「読み本」と「授業書」の二択ではなく両方を、という発想はなかったものかな、とも思った。文部省と日教組の消耗戦によってそういう機会は80年代までなかったか。やっと政権が変わったから、そういう議論がいい形で発生するといいな。 
教師には当たり外れがあるし、学校にも年度にも当たり外れがあり、とくに初等中等教育ではその当たり外れに酷く制約されるものだから、「読み本」式の教科書も保険としてあるべきだと思う。オレは小中学生の時、教育環境が劣悪だった。

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画像はhttp://piapro.jp/content/mv6by7qy70nl4fg3から。