カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

ガッカリとの付き合い

内容のショボイ、費用ばかり高い、あまり楽しくない旅行に行ってきて、帰宅。貸切バスに乗る時間ばかり多くて、ムダに疲労。同行者たちは地元の人の中では善人の部類なのだが、政治の話題になるとネットウヨクと同じことしか言わないので閉口*1。さほど酒が好きなわけでもないのに酒と宴会に延々付き合う。疲労で目・頭・肩・腰が重い。
思えば、楽しい旅行をしたという経験が、今まで私は少ないな。オフシーズンのうちに一人旅でもしておくべきかな。人間は旅行により英気を養ったりするものらしいが、そういうのを実感として感じたことが、あまりない。自分の思い通りに旅行に行けば養うことができるだろうか。
こういう、旅行にいい思い出の乏しい人間が観光業をするのは、向いていないとは思うが、そんなことを書いても詮無い。
日程の重なった日に、表現規制反対でお世話になった議員さんのパーティがあった。別の県で。だいたいウチからだと4時間くらいかかるところで。上述により参加できなかったので、金だけ私が出して、友人に代わりに参加してもらった。世話になった議員さんとの関係を継続するのも、無料でできるわけじゃあない。前者をキャンセルして後者に参加すれば英気が養えただろうか。養えただろうなあ。費用も半分くらいで済んだだろうし。行けば世界が広がるような感覚を得ただろう。表現規制問題につきあうのは疲労することは多いし空しいことも多いんだが、世界が広がるような感覚を時々得ることができるのが、自分にとって離れられない大きい理由だ。逆に言うとそれ以外にはあまり理由がない。
田舎の生活というのは、果てしなくガッカリが続くものだ。ガッカリを受け入れることに20歳くらいまでのほとんどの時間を費やした。今後の地元の生活もガッカリといかに付き合うかにほとんど費やすのかな。田舎では世界の広がるような感覚は全く得る機会がない。世界が物凄くつまらない形で閉じている感覚とか、あらゆるものが色褪せている感覚ばかり強いられる。もしも自分に子供ができて、自分に感性が似ていたら、この果てしないガッカリを与えないようにしたいと願うのだが。ガッカリを受け入れることに心構えをセットすると、裏表で、チャンスを棒に振るのが習い性になる。私はたぶん平均的な人間より運の良い人間だったのだろうが、ことごとく自分の幸運を棒に振った。
老父と旅行を一緒にできたことは良かった。老父はこの先あまり長生きしないだろうと思うので。しかしながらガッカリでない旅行であったならもっと良かったのに、とは思う。*2

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画像は http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=14043296 から。

*1:11/12 22:45追記。連想 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20100513#1273761915 この「同行者」たちは、一応、私より高偏差値の大学を出ているはずなんだが。でもって全員50歳オーバーで、中には80歳の方もいるのだが。近年の老人の政治音痴化・ネトウヨ化は深刻だ。

*2:2012年11月23日11:38追記。翌年の旅行 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20121116