カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

希薄すぎる地元との付き合い

同級生の親の通夜があった。別の同級生からその連絡があり、同級生の何人かが一緒に車で通夜会場へ行くという連絡もあった。同行すると伝えた。待ち合わせのところにいたのは、もしウチの仕事の客として来たら二度と来てほしくないタイプのヤンキーばかりだった。ああ、うっかりしていた。俺の同級生、こんな奴ばっかりだった。車内では延々買春の話を聞かされた。時々私に気を遣って声をかけられるのが輪をかけて辛い。自分の表情がこわばるのが自分で判る。曖昧にほんの数語のみ返答する。なぜこんな人たちと俺は今同席していて、なぜこんな人たちと前半生の長い期間を過ごさなくてはならず、そしてたぶん今後の人生もこいつらと関らざるを得ないのはなぜなのだ、と、延々と脳内で自分相手に会話する。私の前半生は、そういう脳内自己会話の時間が長すぎた。精神的にやばくなるほど。可能なものなら彼らとは今後一生会わずにいたいものであるが、田舎ではそうもなかなかいかない。帰宅した後、体に清めの塩を振った。通夜帰りだからではない。彼らと同席したことで穢れが伝染した気がしたからだ。
地元同業者の旅行があった。金額のわりに内容はよかった。地元同業者にはほとんど面識がないが、数少ない面識のある人物が、前述のヤンキーの一人だ。このヤンキーは20歳の娘を筆頭に5人の子どもがいて、今はそれなりに落ち着いている。どの道会いたくない人物ではあるのだが。延々買春の話を聞かされた。同行の地元同業者にもう一人、一歳年下のヤンキーがいて、私はこのヤンキーのせいで幼少時に失明しかけたことがあった。恨みはあっても親しみも懐かしさもない。が、老父の意思で同業のこのヤンキーには時々客を回してやっている。そんなことをしてやる義理なんかないんだが。それ以外はまあ、旅行の内容は悪くなかった。脳内自己会話の時間もそれなりにあったが、それほど深刻ではなかった。
地元の近所の集会があった。年に一度、集落の近隣が集まって宴会をするという風習が私の田舎にはある。田舎に戻ったことを伝える目的もあり参加する。初参加だ。近隣、とは言っても、私の家は私が生まれる前から集落から離れて生活して、私がこの人たちと実際に近隣だったことは一度もない。観念的な近隣だ。向こうは一応私を近隣として観念的にカテゴライズしてくれてはいる。実際に近隣だったことが一度もなく、集落と生活上関ったことが今までの人生でほとんどなく、四半世紀東京で住んでいたものだから、この観念的隣人のうち、顔と名前と家の所在の一致する人は一人もいない。名前すら判らない。我が老父母は私に近隣の人間の名前や家を教えるのが恐ろしくヘタであり、教えようという意思もない。田舎で、顔と名前と家の所在を一致して私が把握している人間は、本当にごく限られる。
私にとってこの田舎は理屈上は故郷なんだが、懐かしみを覚える心情的材料に極めて乏しい。親しみを感じる対象は、ほとんど存在しない。他の人にとって「田舎」という言葉はそういうことを意味しないようだが、残念なことに私にとっては幼少期から今に至るまで、そういうところだ。この土地には懐かしさも親しみもない。故郷は私には縁の薄い土地だ。この縁の薄い土地で私は残りの人生を過ごす。

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画像は 「とどけて。」/「森田せらぎ(元:みかんばこ)」のイラスト http://piapro.jp/t/YaFp から。