カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

海外の「国語教育」と日本の「国語教育」、「著作権」の濫用


海外出張帰りの家庭、いわゆる帰国子女がけっこう塾生には多いので、海外の「国語」教育と日本の「国語」教育の違いというものを、生徒の保護者から聞いた。(日本語の教育なのか英語の教育なのかよく判らんかったけど、どうも英語での教育の話じゃないかと思う)
他の先進国では「自分の考えを述べる」方法を習得するのが「国語教育」だ。いわゆる修辞学の学習だ。自分の考えを他者に伝わるよう表現を学習するのが「国語教育」だ。
日本の「国語教育」はそれとは思想が全然違う。「出題文を設問者がどう読み取ったかを忖度(そんたく)する」のが日本の「国語教育」だ。つまり権力をもつ者の顔色を伺う態度を養うのが日本の「国語教育」だ。
「国語教育」は直接的にはまず大学での論文執筆のための基礎技術を習得しているはずなのだが、つまり全ての学問・全ての研究を統合・媒介するのが「国語」(言語)であり、その学習であるはずなのだが、日本の「国語教育」は「国語問題を解くためだけの国語」であり、他の学問からは全く断絶し、引きこもりな意味不明な非論理的な教科となっている。「国語」の一単元である文学史も、本来は言語表現がいかに社会を変えたかを知るものだと想像するのだが、「まったく社会に関わらない、自閉的で、社会科学などとはまったく断絶した」感覚的文学の系譜だけを記憶させる単元となっている。文学史」に「論文」の歴史が欠けているのは奇怪なことである。「国語」学習をどれだけしても、「論文」の知識、「論争史」の知識には全く接続しない。そんなものはこの世に存在しないかのような世界観を養わされることとなる。
生徒が読む出題文は、しばしば全く非科学的な迷信を情緒的に記した代物であり、あるいは設問文は出題文を下らない情緒論に回収した回答を求めるものであり、生徒は設問者という権威に服従する態度をのみ求められる。
こんな国語教育を何万年やろうが、自立的な国民など生まれないが、この日本特有の「国語教育」思想は戦前以来のものであり、日本の権力者は「自分の頭で思考できる」人間をいかに排除するかという思想によって貫かれている。

小中学校での出題文にはしばしばとんでもなく非科学的な情緒論が述べられているか、あるいは出題文をとんでもない非科学的低俗道徳論に回収した回答を要求する愚設問が登場する。こういう地雷のごとき出題文・設問をいかに避けて、生徒が「勉強するほどバカになる」ことを避けさせるよう配慮することは国語講師としてというよりも人間として必要な作業だと思うが、なかなか難儀である。

塾産業の「国語」学習は、現在、「著作権」濫用により、酷い目に遭っている。出題文の「著作権」に過度に教材会社&塾が遠慮し、「国語」学習のための教材が塾内で次々使用禁止通達されている。「著作権」濫用しているのは警察&文科省天下り団体のはずであり、この、売国天下り団体のせいで、ただでさえ貧弱な日本の国語教育は、さらに酷い状況になろうとしている(天下りした元官僚どもへ支払われる給与は、財源は税金であり、天下りへの給与総額は日本の総税収の3%にも達している)。既得権益者・既存支配階層は、思考力のない愚民を生産することを望み、思考能力・発言能力のある国民を生産させないことに(自覚的か無自覚かは判らないが)全力を挙げているようだ。

ぽちっとな