カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

藤原彰『餓死した英霊たち』

藤原彰『餓死した英霊たち』は、(やや文章に繰り返しが多いところが気になるが)日本兵士は敵国との戦闘で死亡するよりも自国の「大本営」によって餓死させられたほうが多い、という事実を指摘した本。
以下の一節をまず引用しておく。

軍紀と服従についての規則がきびしくなるのは、一八八五年から八九年にかけての軍制改革の時期である。〔略〕
もともと〔日本〕陸軍が範としたヨーロッパ大陸国の徴兵制の軍隊は、解放された独立自営の農民、すなわち自立した国民の存在を前提としていた。そうした国民を基盤とする兵士には、愛国心、自発的な戦闘意識を期待することができたのである。ところが日本では、明治維新フランス革命のようなブルジョア革命とはいえず、農民の多くは未解放のままにとり残された。独立自営の農民が産み出されたのではなく、貧しい小作農や、地租の負債にあえぐ小農民が人口の過半数を占めていた。つまり兵士の愛国心、自発性に期待が持てなかったのである。そこで兵士にたいしては、機械的に服従するようになるまでの強制と習慣化に加え、一方ではきびしい規律と過酷な懲罰をもって接したのである。(188-189p)

餓死(うえじに)した英霊たち

餓死(うえじに)した英霊たち

第一次大戦では「帝国」と名の付く国家がバッタバッタと倒れていった。ドイツ帝国ロシア帝国、トルコ帝国、オーストリア帝国。「帝国」は実は弱い。民主国家と「帝国」が戦争すると、民主国家が勝つ。民主国家では兵士は自分の財産を守るために戦うが、「帝国」では兵士に取り分はないからだ。だから兵士の士気が上がらない。
「公定ナショナリズムhttp://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060220/1140368017を「国民」に強制した日本は、強制と懲罰で(国家管理者の潜在的敵である)兵士(国民)を統制しようとした。日本人は底抜けに従順だから、この強制はけっこう機能した。
[06:54]
軍部の人事システムは奇怪である。藤原彰は精力的で有能な歴史学者だったが、この奇怪な人事システムの研究は途上だと言える。その研究は我々後続がなすべきだろう。藤原彰が指摘する部分を以下に引用する。

〔1941年の〕この時点での陸軍の意思形成の中心人物は、参謀本部第一部長田中新一陸軍省軍務局武藤章であり、それに作戦班長から七月はじめに作戦課長に昇格した服部卓四郎と、軍事課長真田穰一郎であった。四一年七月に、台湾軍研究部で対米英戦の準備作業をしていた辻政信が作戦課戦力班長として参謀本部に入ると、その強烈な個性と迫力で陸軍の意思決定に影響力を及ぼした。関東軍いらいのコンビである服部が辻に同調することで、その発言権はいっそう強まったのである。
〔1941年の〕七、八月の間は、参謀本部作戦課内部でも、北進派つまり対ソ開戦論と、南進派すなわち対米英開戦論が対立していた。この中で八月末になって南進論が押し切り、年内対ソ武力行使の中止と南進決行へ舵を切った。これは対米強硬論を主張する辻と、辻の主張を擁護する服部の態度が、大きく作用したのであった。
辻はかつて関東軍参謀として対ソ強硬論をとり、ノモンハン事件を起こしてその拡大の主役となったように、対ソ強硬論者であった。それが台湾軍研究部員として南方作戦の準備に携わる中で、一転して南進論者となったのである。こうして田中、服部、辻のトリオが、作戦部長、作戦課長、戦力班長として参謀本部を開戦論にまとめ、ためらう陸軍省を引きずり、海軍内の主戦論者と呼応して、ついに無謀な対米英戦争に突入したのである。つまり作戦課の幕僚層が、対米開戦を主張して、ためらう軍上層部も、政府首脳も、天皇をも引きずって、開戦を主導したのである。
対米英開戦で部内を、ひいては国論を引きずった田中、服部、辻のトリオは、ガダルカナル戦でも作戦部長、作戦課長、作戦班長として、積極論を強硬に主張することで敗戦の責任者となった。一九四三年に作戦課長に復活した服部は、インパール作戦を認可し、山下奉文第十四方面軍司令官、武藤章同軍参謀長のルソン決戦論を排して、台湾沖航空戦の誤報に基づくレイテ決戦に変更させ、フィリピン敗戦の原因を作った。また支那派遣軍参謀だった辻とともに大陸打通作戦を強行し、太平洋に危急の迫る中で、五〇万の陸軍を中国奥地に野晒しにした。つまり戦争の節目で、強硬論を吐いて失敗を重ねたのである。
辻政信こそは、日本陸軍の幕僚支配を代表する人物であった。〔略〕辻は〔略〕陸大卒業後歩兵第七聯隊中隊長として第一次上海事変に参戦、そのさい空閑昇少佐の捕虜送還後の自殺に深くかかわったと思われる。次いで参謀本部部員から陸軍士官学校中隊長となり、早々に三四年の一一月事件(士官学校事件)の口火を切った。次いで関東軍参謀となり、盧溝橋事件が起こると天津に飛んで支那駐屯軍を突き上げた。三七年八月、北支那方面軍参謀となって事変拡大期の攻勢作戦の主張者となり、同年一一月関東軍参謀となった。ここで作戦担当として、作戦班長として着任した服部卓四郎とともに、ノモンハン事件の挑発と拡大の主役を演ずることになる。事件が惨憺たる敗北に終わり、更迭されて第十一軍司令部付となるが、いつの間にか復活して四〇年一一月、台湾軍研究部員として南方作戦の研究準備に当たり、さらにその成果をひっさげて四一年七月、参謀本部作戦課戦力班長となり、作戦課長服部とのコンビで対米開戦をリードする。
南方作戦にさいしては第二十五軍参謀としてシンガポール攻略に当たり、信奉者からは「作戦の神様」と称された。四二年三月参謀本部に戻ってガダルカナルやモレスビー作戦を指導した。作戦指導だけでなく、シンガポールの華僑大検証や、フィリピンのバターン死の行進大本営派遣参謀として)を強硬に推進した責任者である。〔略〕
一方辻とコンビを組み、上司として辻の活動を自由にさせたのが服部卓四郎である。〔略〕作戦主任として辻とともに強硬論でノモンハン事件を拡大した。事件後歩兵学校付に左遷されたが、四〇年一〇月参謀本部作戦班長に復活、四一年七月作戦課長に昇任して対米英開戦の指導に当たった。
初期の南方作戦は成功したもののガダルカナルの敗戦を招き、四二年一二月作戦課長を退いたが、東条英機にその才幹を買われて陸相秘書官となる。四三年一〇月、太平洋方面の戦況が急迫する中で再び作戦課長に返り咲き、執念を燃やしていた大陸打通作戦を実行に移した。〔略〕戦後もGHQの歴史課に勤めたり、自ら史実研究所を主宰したりして戦史研究をつづけ、『大東亜戦争全史』の大著を刊行している。
〔略〕〔服部は〕ノモンハンでも、ガダルカナルでも、レイテでも、抜き差しならぬまで兵力を注ぎ込んだ責任者であった。
辻や服部が衆目の一致するノモンハン敗戦の責任者でありながら、たちまち中央の作戦担当者に復活して対米英戦を主導し、ガダルカナルの敗北を招いていったん退きながらまた返り咲くなど、作戦の中枢にあった人物たちの人事には不可解な点が多い。
失敗者がたちまち要職に返り咲くという点では、田中新一の場合も同様である。田中は三七年の盧溝橋事件のさいには、陸軍省軍事課長として〔略〕拡大論の先頭に立って戦争の拡大をはかった責任者であった。その後田中は駐蒙軍参謀長に転じたが、ここで岡部直三郎軍司令官と衝突して処罰されている。四〇年一月駐蒙軍は、大本営の認可を得てオルドス進攻作戦を行った。これは大本営が北支那方面軍の基本任務として課している制限線の線を三〇〇キロも越えた五原に進攻するもので、進攻後反転してもとの線に戻ることが大本営や方面軍の意図であり、岡部軍司令官もその方針を堅持していた。ところが田中参謀長は五原占領後の確保にこだわり、軍司令官の方針に反対して、五原確保のため、さまざまな策を弄した。結局田中は司令官の命令に反して蒙古軍部隊とともに、桑原荒一郎中佐以下の特務機関を日本軍撤兵後の五原に残置させた。四〇年三月、日本軍が去ると蒙古軍が動揺したので、田中はさらに警察隊の日本人を投入したが、三月二〇日傳作義軍が五原に来攻し、特務機関は全滅した。岡部軍司令官はこの責任を問うて、五月に田中を譴責処分にした。
こうした事件があったにもかかわらず、四〇年一〇月田中は参謀本部の第一部長に抜擢され、対米強硬論の先頭に立つのである。
田中作戦部長、服部作戦課長、辻作戦班長のトリオは、ガダルカナルへの兵力投入、奪回作戦強行の主役であった。このため船舶増徴を要求して陸軍省と対立し、田中が佐藤賢了軍務課長を殴打したり、東条首相兼陸相を馬鹿呼ばわりしたりして、四二年一二月に解職されるのである。
「作戦屋」といわれる人たちの中でも、とくにエリートたちを、加登川幸太郎は「奥の院」といっている。西浦進や加登川の、予算や物的戦力にかかわる陸軍省軍事課関係者の回顧録では、こうした作戦屋の奥の院で不死鳥のように復活する人事について批判的である。これは東条英機富永恭次のような人事にかかわった上層部が、積極論者に好意的だったことによる面もあったろう。また批判者がいうように、奥の院のエリートたちの相互扶助が物をいったのかも知れない。〔略〕失敗した者がたちまち要職に返り咲いて、また大きな失敗を重ねるという不思議なことがくりかえされてのである。(166-171p)

辻政信は戦後のうのうと参議院議員となり、嘘と捏造にまみれた体験記を書いてベストセラー作家となった。辻政信の選挙区を継ぐのが森喜朗であり、辻政信の娘婿が富士急行会長・堀内光雄衆議院議員である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%86%85%E5%85%89%E9%9B%84

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