「言葉は通じるが話が通じない」感覚と、渇き
藤子Fの『ミノタウロスの皿』*1に、「言葉は通じるが話が通じないというのは恐ろしい経験だ」といった台詞がある。おそらく藤子Fはこの感覚を幼少時から生涯持ち続けたんだろうなと想像する。絵柄は作者の世界観を反映する。藤子Fの絵柄は私の世代にはマンガ絵のスタンダードとしてインプットされているが、改めて見直すと、湿り気がなく、プラスティック製の人形やオモチャに似ている。藤子Fの内面世界を反映していると解釈すると、オモチャに囲まれた孤独な理想郷と言える。
我が半生はひどく迷走している時期とそれほど迷走していない時期に分かれるが、ついうかうかと肉親との距離が接近してしまったとき、迷走する。相性の悪さというのはほとんど先天的なもので、肉親との相性が自分は悪いのだ、と理解するのには時間を要した。肉親との相性が悪いのは嬉しいこととは言えない。肉親の声を聞く都度、虚しさとか無力感とかを覚えてしまうことはやるせない。
私が一時期猛烈に情報を集め蓄積し整理発信していたのは、私がたいへん長い時期、情報の涸れ果てた辺境に身を置いていたからだろう。涸れたものをどんなに絞っても渇きは癒せない。だが渇きは身を責める。私が占術を趣味にしているのは、情報の涸れた果てに住まわっていた時期が長く、不可視な部分が多かったからだろう。人は不可視なところをそれぞれ自分なりに意味づけして世をやり過ごす。不可視は万人共通ではない。各人の経た人生が不可視領域を決定する。ある人にとっての不可視領域が可視である人からの言葉は、そこが不可視になっている人には感覚的に届きにくい。非常識過ぎるように不可視な人には聞こえてしまう。情報自体は飛び交っているので、受信アンテナさえ立てておけば受信自体は可能だ。だが受信アンテナを立てようという動機を持つ人はたぶんそれほど多くはないし、受信アンテナの指向性は各人各様だ。短波放送しか受信しない人はこの世にFM放送やテレビ放送があり得ることを想像しない。
以上独り言のポエム。
*1: 藤子不二雄異色短編集〈1〉ミノタウロスの皿 (ゴールデン・コミックス)