カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「松村テクノロジー」社長松村喜秀への素敵な批判

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日経新聞にあった、「松村テクノロジー」社長松村喜秀氏によるアホの極みな「論説」↓

【論説】 「ゲーム製作者へ…もう殺人や暴力のゲーム作るな!」「ゲーム画面の女の子にケーキ贈る…異常だ」…秋葉原事件で会社社長
 先日、テレビか何かで見たのだが、ゲームに登場する女の子の誕生日に、オタクの男性がケーキを買ってきた。そして、テレビ画面にその女の子を映し出し、「○○ちゃん、お誕生日おめでとう」と言いながら、ケーキをうれしそうに食べていた。これがやらせでないなら、もはや異常だ。異常という言葉が悪ければ、あきらかに現実からはるか遠い世界だ。
 http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/ea/27/index.html

これ↑への素敵な反論↓

48 :名無しさん@九周年:2008/07/07(月) 22:43:11 gijYGDmR0

あのさー、「ゲームキャラクターの誕生日祝うなんて異常だ」なんて言葉には何の意味もないわけよ。現実からはるか遠い世界って、そりゃ現実からはるか遠い世界だよ。そんなの誰にでもわかるって。
これは言い換えるとね、例えば友達が命日に彼女のお墓に食べ物供えたとして、「死人に食べ物供えるのは異常だ」と言ってるのと同じなわけよ。もっと言うと、友達の彼女の墓石を指差して、「こいつはただの石だ」と言ってるのと同じなわけよ。
別に間違ってないよ。死人に食べ物供えても無駄だし、墓石はただの石だ。でもそれがなんだっての? 石だから感情を抱くのは間違いだ、死人だから食べ物を供えるのは間違いだ、とでも言うの? それはちょっとバカすぎるね。バカすぎる。「ゲームキャラクターの誕生日祝うのは異常だ」ってのはそういうのと同じなんだよ。好きになるのは人格としての、存在としての彼女だろうが。物理的構造なんてどうだっていいんだよ。そんな当たり前のこともわからないわけ?

247 :名無しさん@九周年:2008/07/07(月) 23:12:25 gijYGDmR0

健康な体に健康な精神が宿る--松村テクノロジー社長 松村喜秀氏 2008年6月6日http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/ea/25/index2.html
若者の身体を鍛えることだ。外で遊びやスポーツもせず、家に閉じこもってゲームにのめり込む生活がどう考えてもいいわけはない。身体を動かし、鍛え、健康な肉体になれば、精神も健康になる。

「風刺詩集 (Satvrae)」の第10編第356行にあるラテン語の一節;"orandum est, ut sit mens sana in corpore sano"は「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(A sound mind in a sound body)と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として定着している。しかし、これは本来誤用であり、ユウェナリスの主張とは全く違うものである。そもそも「風刺詩集 (Satvrae)」の第10編は、幸福を得るため多くの人が神に祈るであろう事柄(富、地位、才能、栄光、長寿、美貌)を一つ一つ挙げ、いずれも身の破滅に繋がるので願い事はするべきではないと戒めている詩である。ユウェナリスはこの詩の中で、もし祈るとすれば「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」(It is to be prayed that the mind be sound in a sound body)と語っており、これが大本の出典である。

昔、小林よしのりのマンガにもこれ出てきたな。

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関連して、以前紹介した、本田透のサイトから「脳内彼女は世界を救う」http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060509#1147109838

http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/index.html
大戦中にドイツ軍の捕虜収容所に居たフランス兵たちのあるグループが、長引く捕虜生活の苛立ちから来る仲間内の喧嘩や悲嘆を紛らわすために、皆で脳内共同ガールフレンドを作ったという話がある。
・・・そのグループが収容されてた雑居房バラック、その隅に置かれた一つの席は、13歳の可愛らしい少女がいつも座っている指定席だった。(という、皆のイメージ)
彼らグループの中で、喧嘩や口論など紳士らしからぬ振る舞いに及んだ者は誰であろうと、その席にいる少女に頭を下げ、皆に聞こえる声で非礼を詫びなければならない。
着替えの時は、見苦しい姿を彼女に見せぬように、その席の前に目隠しの布を吊り、食事の時は、皆の分を分け合って彼女の為に一膳をこしらえ、予め決められた彼女の「誕生日」やクリスマスには、各自がささやかな手作りのプレゼントを用意し、歌でお祝いをする。
・・・最初は慰みのゲームのようなものだったのが、皆があまり熱心になると、監視のドイツ軍までもが、彼らが本当に少女を一人かくまっているものと勘違いして、彼らの雑居房を天井裏まで家捜しするという珍事まで起こった。
だが、厳しい捕虜生活の中で、他の捕虜たちが衰弱して病死したり発狂や自殺したりする中、そのグループは全員が正気を保って生き延び、戦後に揃って故国の土を踏んだという。

これって「神様は実在するかもしれない」と考えるほうが心を強く保てる、というのとたいへんに似ているというか、同じことだと思われる。これらを総合して考えると、松村喜秀俗流唯物主義者の末裔なようだ。

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