「現代文」の授業は何のためにあるのか
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20090813/1250130867をざっと読んで、自分の思うところを以下書く。
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「現代文の授業は何のためにあるのか判らない」というのは高校まで私も思っていた。大学卒業後かなり長く思っていた。大学受験の「現代文」は今どんな感じなのか遠く離れているので判らないが、塾講師をして高校受験中学受験の「現代文」すなわち「国語」を担当して、「何のため」というより「誰のため」なのか判った。
日本人には、日本語の文章の読めない人が、たぶん2〜3割くらいいる。そういう人のために「現代文」という授業と科目は存在する。「日本語の文章の読めない日本人」のことを「読解力がない」という。ブログを書く人はたいがい読解力は高い。マンガオタクアニメオタクは少なくとも「文学的文章」の読解力はそこそこ高い。そのため、「なんのために現代文という授業と科目があるのか判らない、書いてあることを読めば判るではないか」と感じがちだ。しかしながら「読解力のない」人は一定割合いて、その人たちのために「現代文」という科目と授業はある。
じゃあ授業を受ければ「読解力」が上がるのかというと、たいして上がらない。だからなおのこと「何のために」ということになる。しかしながら授業を受けなければ漢字も読めない書けない、そもそも言葉が単語レベルでわからない、だから書いてあることが理解できない、という低い状態のままになる。なので教師の巧いヘタはあっても授業を受けないよりは受けたほうがマシとなる。「読解力」のある人にとっては退屈で苦痛で苦行だが。高校までの全科目を単位制にすればこの果てしない時間の浪費がずいぶん改善すると思うが、どうやら日本では優秀な人間をロス少なく育てるという意思はないらしい、これは別問題なので措く。
小学生中学生で「読解力」の乏しい生徒は一定のパターンがある。親子の会話が少ない。家庭に「大人」がいない。「お勉強」ばかりさせてマンガやアニメや映画を見る機会・時間がほとんどない。こういう生徒は「国語力」が乏しい。とはいえ1割くらいの確率で、おそらく生来「読解力」の乏しい子がいるようにも感じるがhttp://d.hatena.ne.jp/kamayan/20080706#1215353540これは措く。
国語力の乏しい生徒は「大人の言葉」に触れる絶対的な回数が少ない。なので「大人の言葉」に触れる回数を増やすのが対策となる。マンガや映画はその対策として有益なのだが、国語力の乏しい家庭ではマンガも映画も文化的娯楽も子供に触れさせないので、仕方がないので「星新一」あたりを買い与えて「一日に一作品ずつ読め」と指導したりしている。ちゃんと言われたとおり読んでいる生徒はそれなりに効果が出ている。また中学生で読解力のない生徒へは読解問題を一日に一題ずつ別課題で解かせている。そんな退屈な作業で成績が上がるものかと正直言って思っていたが、やらせてみるとそれなりに上がるから量は大事だ。これは私が塾講師で生徒が学習意欲のある塾生徒だから可能なのであって、意欲のない学校の生徒ではお手上げだろうな、とは思う。
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中学入試高校入試の国語は「論説文」と「小説文」に大別される。受験国語の「小説文」は本来は多様な読解が可能なのだが、「受験国語」においては、設問の背景に「道徳」観念があり、出題はその「道徳」律に沿っているかどうかが暗黙に問われている。と石原千秋が指摘していて、これはたいへん指導に使える考え方なので、塾では高いレベルにおいてはその道徳律を「読解」する訓練をさせる。http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20070809#1186593914
とはいえ、私は「小説文」の指導は正直苦手で、「論説文」を指導するほうが得意だ。結果として生徒も「論説文」を得意となる。「論説文」の読解力はある程度努力が結果に反映する。「小説文」は解ける生徒は放っておいても解ける。解けない生徒は「お勉強」だけしてもあまり解けるようにならない。
「論説文」のほうは出題文は多少難解だが、設問条件がわりとカッチリしている。設問が「多様な解釈」を許さないつくりになっていることが多い。なので比較的指導しやすい。得点力を比較的に上げやすい。
「小説文」は設問条件が意味不明なことが時々ある。「意味不明に見えても受験国語の慣例の中では推定可能な範囲の設問」というのもあって、それはどうにか指導できる。塾はそういうものを教える場なのだという考え方もできる。
しかしながら「愚問」というのも多い。中学入試には愚問はわりと少ないのだが、東京都の高校受験の国語は愚問が多い。私立都立問わず。出題文がそこそこ面白い文章でも、阿呆が作ったような設問が多くて、生徒にも苦行だろうが、指導する側にも苦行になることはしばしばある。「愚問」は設問の条件が少なすぎて、何が問われているのか不明であるのが最悪だ。はっきり書くが、自分の知る限りとくに愚問が多いのは専修大学付属高校だ。専修大付属高校の国語の先生がもしここを見ていたら、今年からは改善してもらいたい。あんたのところの論説文の設問はひどい。一つの設問に対して常に3つくらいの解答が想定できて、そのうちどれを問うているのか手がかりがない、という問題だけで入試問題を作るのはやめてほしい。過去問の模範解答も「声の教育社」が作成した推定答案なので、それが本当に出題意図に合致した解答なのかどうか不明だ。これでは指導が手に負えないし、過去問を解かせても国語力がつかなくて生徒は混乱するし教育的に問題が発生する。
で、まあ愚問のことは措いて。
「読解力」のある人には「読解力」のない人がいったいどう世界を見ているのか想像が付かない。書いてあることが読めない、読んでも理解できない、ということが理解できない。おそらく外国語を読むときに私たちが苦労しているのと似ている苦労を「読解力」のない人はしているのだろうな、とは思うのだが、じゃあどうすれば読めるようになるのかというと、基本的には単語力を増やすのが先決となる。日本語は漢字で抽象思考をするので、漢字の読み書きならびに意味の理解と同義語対義語の把握が先決となる。そこまでどうにかなれば後はなんとかなる。受験平均点は漢字と同義語対義語などが判ればだいたい採れる。他の科目は偏差値60、国語だけ偏差値30とか偏差値25とかいう生徒を国語偏差値45まで引き上げれば、あとはどうにかなる。現在そういう生徒を複数担当している。
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塾での「国語」読解関係 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20070809#1186593914 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061011#1160521802 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060708#1152297583