カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

日本人が底抜けのバカ揃いであるのは、「定型文」を由とするから。「東大話法」とは「定型文」ストック。

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私はしばしば陰謀論の人だと評される。
陰謀論というのは、ヒトはそれ程バカ揃いなわけがない、という前提で考えて社会の不条理に解答を求めようとするとき生まれる。
いや、人間はバカ揃いであり愚か者ばっかりなのだ、という前提で理屈が通るときには陰謀論を唱えるべきではない、とされる。
私は日本人の知能程度は底抜けのバカ揃いではないはずだ、と、長く思っていたんだが、知能程度がパーなわけでなくとも底抜けのバカな行為をしつっこく行うのは、日本人の「民族性」に由来するかも、と、思いを変えた。
「民族性」とか「国民文化」とかいう言葉もよくよくのことがないと使っちゃいけない言葉なのだが。
「日本人は、『定型文』をバカの証明だとは思わず、むしろ賢さの証明だと錯覚する民族性がある」
と気づいた。
「定型文」については内田樹の以下リンク先参照されたし。
http://blog.tatsuru.com/2010/04/05_1205.php http://blog.tatsuru.com/2010/04/02_1243.php http://blogos.com/article/35980/
私の受けてきた教育とか私が塾講師していたとき感じたこととかから思うのだが、日本では、「定型文通り」に書けたら少なくとも失点がない、「定型文」から外れたらペナルティを被る、そういうルールになっていることが多い。
その結果、「秀才」と「凡庸な人々」は「定型文」をひたすら身に着けようとする。「定型文」の枠内なら安全であり、その枠外になった瞬間誰からもどこからも保護されないということを日本人は経験的に常に教え込まれる。

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「空気を読む」とは「その場に合った定型文を思い出す」という意味だ。
「東大話法」とは、膨大な「定型文」のストックを持ち、適宜「その場に合った定型文」を思い出し編み出す技術を言う。
「定型文」は自分の言葉ではないから、常に無責任である。だが無責任に対してのペナルティは日本にはない。「定型文」から外れることへのペナルティはあり、「定型文」から外れることのメリットは割合少ない。

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「定型文」は無責任で無内容なので、読んでも聞いてもつまらない。たいして面白くない。知性を刺激しない。よって他の先進国、とくに政治統制があまりきつくなく、知性の増大が国益に適うという国是の先進国においては「定型文」は糞と同義、だと思われる。
知性の増大が国益に適う、という前提は世界の歴史でそんなに普遍的ではなく、知性の増大は既存権威を危うくさせかねないので、わりとよく弾圧抑圧される。
知性が弾圧抑圧されると、「当たり障りのない言葉」を人間は求めるようになり、「定型文」の価値が上がる。
繰り返すが「定型文」はつまらない。自分の魂から出た言葉ではないから。よって、「定型文」の支配する国では、「定型文の枠内でちょっと風変わりなことを言う」ことを「知性」と見なす。「東大話法」的「知性」とはそういうものだ。
「魂から迸る言葉」のほうが、本当は読んで面白い。近代の一時期、知性が国益に適った時期、「魂から迸る言葉」の価値を「定型文」の枠内で処理しようとして「個性」というマジックワードが生まれた。

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「定型文」は「自分の魂から迸らせる」必要がないから、生産する方としては楽チンである。よく「マスゴミ」と呼ばれるが、「マスゴミ」とは何にも考えずに「定型文」を垂れ流されそれを受け止めざるを得ないことへの不快感の表明である。「マスゴミ」とは「定型文の塊」である。
「定型文」は事実や実態を無視して、「定型文」で構成された「偽物のリアリティ」を作る。逆に言うなら、「偽物のリアリティ」の枠の中で言説を操ることが「定型文」だ。
事実や実態に「定型文」は関心を持たない。事実や実態は「定型文の枠」を壊す可能性があり、「定型文による偽物のリアリティに沿った構成」よりしんどくてかつ保護されないので、必然的に「定型文」の枠外の言葉は少なくなるか、見えにくくなる。
ネットウヨクが言うところの「サヨク」とは、しばしばこの「定型文」を指すように思われる。「定型文」の弊害、つまり事実や実態、庶民の情念の無視を指すように思われる。それによりネットウヨクという感性は一定の支持と模倣者を得た。
左側・リベラル側から見ると、ネットウヨクの発言は、「質の悪い定型文」の塊だ。皮肉なものだ。

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さて、ものごとのほぼ全てが「定型文」によって動きやりとりされる社会においては、本当の事実・実態によって根拠づけられる本当のリアリティは、むしろ邪魔者である。考えるな、(定型文の枠を)感じろ、というのが「定型文」社会のリアリティだ。
よって、マンガ規制は児童虐待防止には全く何の寄与もしないという本当のリアリティは、「漫画やアニメによる悪影響」という「偽物のリアリティの定型文」の前に苦戦し続ける。
原発の廃棄物を何万年も管理しなくてはならないという途方もない後世への借金のつけ残しは、後世のほうが確実に貧困になりそうな社会において、まるっきり経済的に非現実的だ、というリアリティは、原発がなくては経済が立ち行かないという「偽物のリアリティ」によって潰される寸前だ。
賢さが「定型文の枠」「定型文の限界線」を探ることに費やされる社会において、秀才は、不誠実に、「その場に合った定型文」を「それなりのアレンジ」で供給できる能力を意味する。
「定型文」は無責任不誠実であるので、残酷な方向へぶれやすい。山本七平支持者はこの「定型文による無知性な暴走」を「空気」と呼び、何か本質を指摘した気になっている。山本七平も何物かを指摘した気になっていた。山本七平批判者は、山本七平自身が偽ユダヤ人として「一見新しげに見える定型文」を捏造したその無責任さ不誠実さが、「定型文」の罪悪それ自体であることを非難し山本七平を称賛する人をバカか不誠実だと見なしている。
「定型文」咲き賑わう国においては、個々の頭の出来はともかくとして、「定型文」コミュニケーションという反知性主義的言説空間が大きすぎ、結果として、日本人は救いがたいバカ揃いとして振る舞うこととなる。

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