「つくる会」や「『国が燃える』叩き」や「マンガ規制論」の御先祖たち
日本史の高校参考書を読んでいたら、明治期にあった「つくる会」的なというか、「『国が燃える』叩き」や「マンガ規制論」の御先祖というか、そういう動きについて記述があったので、書いておく。
〔明治期の〕歴史学
〔明治の〕初期には、フランスやイギリスの文明史や進化論の影響(ギゾー『ヨーロッパ文明史』・バックル『イギリス文明史』など)による文明史が流行し、福沢諭吉『文明論之概略』、田口卯吉『日本開化小史』などが著された。この傾向はさらにすすみ、三宅米吉はコントの実証主義によって『日本史学提要』を刊行(1884)したが、一巻だけで中絶を余儀なくされた。
それに代わって、1887(明治20)年に招かれて来日したリースは、ドイツのランケ史学による実証主義をとなえ、史論的風潮を批判した。重野安繹(しげの・やすつぐ 1827-1910)・久米邦武(くめ・くにたけ 1839-1931)・那珂通世(なか・みちよ 1851-1908)・白鳥庫吉(しらとり・くらきち1865-1942)・坪井九馬三(つぼい・くめぞう 1858-1936)などの実証主義の先駆的学者が生まれた。しかし、このような歴史学研究の転換に加えて、国家主義者から近代的歴史分析や史論への攻撃が強まり、久米邦武の筆禍事件や南北朝正閏論争が生じたため、わが国の近代歴史学は権力分析を回避する傾向が強くつきまとうことになった。〔略〕
国家主義と歴史学
1)久米邦武の筆禍事件
東大教授久米邦武が『史学雑誌』に発表した論文「神道は祭天の古俗」が、1892(明治25)年、田口卯吉が主宰していた雑誌『史海』に転載されると、神官・国学者を中心とする国家主義者たちはこれを猛烈に攻撃した。久米のこの論文は、神道の発生と発達を原始人の太陽神信仰から合理的・進化論的に解明したものであったが、国学者たちはこれを、神道と皇室の祖先を傷つけるものとして激しく攻撃し、そのため久米邦武は帝大教授の職を辞職した。
2)南北朝正閏論争
1911年正月の読売新聞社説は、小学校国的教科書の教師用書に、「南北朝」の表現の用いてあることをとりあげ、これは南朝も北朝もともに認める考え方で、教育上・社会治安上において好ましくないと論じた〔カマヤン注1〕。これをうけた国家主義者たちは、執筆者の喜田貞吉に集中攻撃を加えて議会の問題にまでした。当時の政府は、【明治天皇が北朝の流れ】であるところから問題解決に苦慮したが、結局、後醍醐天皇の南朝を正統とみなす見解をうちだし〔カマヤン注2〕、喜田貞吉を文部省から追放した。以後「南北朝」時代は、1945年の太平洋戦争の敗戦の日まで、もっぱら「吉野朝時代」と表現された。
この二つの事件は、国家主義が学問研究の自由を圧迫・侵害した早い時期の事件として有名である。この後のわが国の歴史学者は、君主制(天皇制)や国家権力の研究や分野を回避する傾向があらわれた。
出典;『新課程 チャート式シリーズ 新日本史 近代・現代編』(数研出版、平成16年)88p。
カマヤン注1;バカバカしいことこの上ない。「社会治安」なんて言葉が出てくるあたり、マンガ規制派の原型的。
カマヤン注2;南朝を正統と見るのは水戸学のイデオロギーである。水戸学に従うと明治天皇は正統な天皇ではないことになる(当然その子孫である大正天皇・昭和天皇・平成天皇も非正統になるし、室町・江戸時代のほとんどの天皇も非正統になる)。国学者どもはそのことに気づいていたのかどうか知らんが、バカバカしい論争である。このため後年、昭和天皇は自分の正統性を「三種の神器」に求めることになる。
さて、それはそれとして。それとは直接にはつながらないけど。
「つくる会」と、1950年代日本共産党の「国民的歴史学運動」の相似性を、小熊英二が発見し『〈民主〉と〈愛国〉』で詳述している。この相似性の指摘は非常に面白いし、説得的だ。ぜひ図書館などで『〈民主〉と〈愛国〉』をご覧いただきたい。
小熊英二自身による紹介「私たちは『戦後』を知らない」
- 作者: 小熊英二
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http://www.shin-yo-sha.co.jp/essay/e-oguma.htm私たちは「戦後」を知らない
あなたは、共産党が日本国憲法の制定に反対し、社会党が改憲をうたい、保守派の首相が第九条を絶賛していた時代を知っているだろうか。戦後の左派知識人たちが、「民族」を賞賛し、「市民」を批判していた時期のことをご存じだろうか。全面講和や安保反対の運動が「愛国」の名のもとに行なわれたことは? 昭和天皇に「憲法第九条を尊重する意志がありますか」という公開質問状が出されたことは?
焼跡と闇市の時代だった「戦後」では、現在からは想像もつかないような、多様な試行錯誤が行なわれていた。そこでは、「民主」という言葉、「愛国」という言葉、「近代」という言葉、「市民」という言葉なども、現在とはおよそ異なる響きをもって、使われていたのである。
一九九〇年代の日本では、戦争責任や歴史をめぐる問題、憲法や自衛隊海外派遣の問題、あるいは「少年犯罪」や「官僚腐敗」などの問題が、たびたび論じられた。しかしそれらの議論が、暗黙の前提にしている「戦後」のイメージは、ほとんどが誤ったものである。誤った前提をもとに議論しても、大きな実りは期待できない。私たちはまず、自分たちが「戦後」をよく知らないということ、「戦後」に対する正確な理解が必要であることを、自覚することから始めるべきだと思う。
この本は、そうした問題意識から出発して、「戦後」におけるナショナリズムと「公(おおやけ)」をめぐる議論が、どのように変遷して現代に至ったかを検証したものである。このテーマを追跡するために、「戦後」の代表的な知識人や事件は、ほとんど網羅することになった。
たとえば丸山眞男・大塚久雄・吉本隆明・江藤淳・竹内好・鶴見俊輔などの思想はもとより、共産党や日教組の論調、歴史学者や文学者などの論争も検証した。憲法や講和、安保闘争、全共闘運動、ベトナム反戦運動などをめぐる議論も、可能なかぎり追跡した。さらに戦争や高度経済成長などが、こうした思想や論調にどのような影響を与えたのかも、重視されている。
結果として本書は、「戦後とは何だったのか」そして「戦争の記憶とは何だったのか」を問いなおし、その視点から現在の私たちのあり方を再検討するものとなった。「私たちはどこから来たのか」、そして「私たちはいまどこにいるのか」を確かめるために、読んでいただきたいと思う。
著者 小熊英二