「物心」のついていない人たち
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060924#1159035885■[思惟]「抽象」と「具体」/「枝野幸男」と「煽り」 の続き。
以下は現時点では単なる思い付きの域を出ないものである。当方の全くの見当違いである可能性もけっこうある。ので「思惟」カテゴリに含めるのには躊躇があるのだが、とりあえずメモとして以下記す。
塾生で、どうもこの生徒は困った生徒だなあ、と感じることが以前多かったのだが、いや、今でも多いんだが、「困った生徒」というのは「物心」がついていないのだ、と気づいてから、ずいぶん気持ちの整理がついた。
「物心がつく」時期には物凄く個人差があり、中学生くらいだとまだ「物心」がついていない生徒がけっこういる。私自身はわりと早く「物心」がついたほうなので長く気づかなかったのだが、友人で「自分は成人直前まで『物心』がつかなった」という人がいて、ああ、そういうものか、と考えるようになった。その友人自身は、相当に深く物事を考え、視点鋭く、理知的な人物なのだが、それは置いておく。
「物心」がついていない状態というのは、「自分とは何だろう」という自意識がまだ育っていない状態だと言える。「自意識系」という論説文のジャンルが中学受験国語にはあって、社会論を「自分とは何なんだろう」という問いかけから切り取るのが典型だ。
「物心」がついていない状態とは、自分自身を見つめる「超自我」の存在しない状態だ。動物のごとき行動しかできない。別な言い方をすると、抽象思考をしない状態だ。抽象思考をしなくても生活はできる。
「抽象と具体」というのも中学受験国語ではよく出てくるジャンルだ。「物心のついていない」生徒には、これを教えるのは難儀だ。小中学生の中には見るからに「幼い」生徒がいて、行動も思考も幼いことがある。こういう生徒は「物心がまだついていないんだな」というのは以前からなんとなく感じていた。私は塾講師を始めた当初は「子供を子供扱いしない」主義で(何せロリコンなので。閑話休題)「子供」という言葉すら使わなかったのだが、国語での読解力を生徒につけさせるには「大人」「子供」という二項対立を使わざるを得ないと知り、以来、その二項対立を意識するようになった。(これって私にとっての人間的成長なのかなあ。よくわからんけど)
「物心がついていない」類型について拡大して考えるに至ったきっかけとなる生徒は何人かいるが、「生徒A」の場合、「歴史の因果関係」が理解できなかった。因果関係という抽象思考自体を理解しない。ので、得点させるためには具体の連続を教え込むことになる。生徒Aの場合、授業態度自体は真面目で、そこそこ得点力はあるのだが、因果関係の理解力が欠落しているので、質問がいちいち頓珍漢で授業の邪魔になる。当人は真面目に質問しているのだが、質問内容が目茶目茶なのだ。生徒Aの場合、外見は「幼い」という感じではなかった。ちなみに中2である。が、他の、外見も幼いし行動も幼い生徒の類型を考えているうちに、この生徒Aも「物心がまだついていないのでは?」と思うようになった。そう整理すると、生徒Aの発言内容に合点がいった。
「物心がついていない」生徒は、国語の得点力が低い傾向にある。国語という科目は「大人の言葉」と「大人の思考法」を問う科目である。「大人の思考法」とは抽象思考を指す。別な言い方をすると、石原千秋から引くと、国語は「おマセさん」ほど得点できる科目だ。つまり「大人の考え方」がトレスできる生徒は得点でき、「大人の考え方」がトレスできない生徒は得点できない、という科目だ。…この断言に異論があるだろうことは予想できるけど、面倒臭いので説明は省く。…蛇足すると、「物心がついていない」生徒が算数・数学はできる場合もあるが、それは一定の刺激(設問)に対して一定の反応(解答)をしている、という言い方ができる。ああ、もちろん、科目ごとに分断されている学校教育とか受験勉強で人格統合なんてそもそも必要とされていないし、教育がそんな人格的陶冶を目的にしているとは思えないだろうし、個別に例外は常にあるよ。抽象思考の最たるものである数学ができて、抽象思考を理解できないというのは一種の語義矛盾なんだが、抽象思考を自分はしているのだという「自意識」を欠き、それを数式とは別の「言葉」という「言語」に置き換えられると理解不能になる、発達段階がアンバランスな状態だ、と言えるかな。蛇足でした。
生徒Aを観察する以前にも「中3くらいだとまだ物心がついていないから」と冗談で言うことはあったが、どうもこれは冗談ではなく、そうなんだな、と現在は思っている。で、さらにこれを敷衍して考える。
抑圧や困難に直面することで、「自分とは何だろう」という思春期的自意識が生まれる、そしてその「自意識」の対立概念として「客観」という概念が当人の中に生まれる。これが普通の「成長」だ。この過程を経ずに成人することもけっこうな数ありえるんだろうな、と感じる。「物心がつかない」まま年齢が成人を迎える、ということがけっこうな数ありえる。で、事実そうなんだろう。
で、抽象思考を理解できず、歴史の因果関係を理解できず、客観という概念を理解できない人というのを、まあリアルで見ることは幸いにしてあんまりないんだが、webではわりとよく見かける。「ネット右翼」とか「ネットゾンビ」とか呼んでいるあの人たちのうち、カルトやヤクザの工作員ではない素の人びとは、この「物心」がつかないまま歳を経てしまった人たちなんだろうな、と思われる。ならば、その意味、彼らを「ネット『右翼』」と呼ぶのは「褒めすぎ」だ。私は反省しなくてはならない。
オルテガは以下のような意味のことを言った。「世の中には2種類の人間しかいない。バカのギリギリ一歩手前で踏みとどまっている人間と、自分がバカであることにすら気づかないバカである」。後者は「物心がついていない」人びとだと呼ぶことができる。とはいえ、後者が歴史を牛耳ることはしばしばあるから、「物心がついていないから無害」だとは言えない。以下は蛇足というか言い過ぎとなるが、オルテガは後者の人びとについて、20世紀前半の時点で二つの例を挙げた。一つはファシストであり、一つはボルシェビキである。日本現代史でも、1930年代は「より知性の低い人びと」(言い換えると「物心ついていない人びと」)が軍国日本を牽引した。…ならば、「物心つかない人びと」に対抗する力すらない「物心」とか「知性」とはいったいなんであるのか、という問題が次に浮上するのだが、以上は現時点では単なる思い付きのメモであり、ここでぶん投げて筆を置く。
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20070809#1186593914 へ続く。