カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

『イスラームから見た「世界史」』、続き

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20130403/1365011432 の続き。
この本によると、al-という接頭詞は、英語で言う「THE」みたいなもので、アッラーとは「THE 神」のことだそうだ。
そういえば、「FATE/ZERO」登場人物イスカンダルアレクサンドロスのアラブでの呼び名だが、「アレクサンドロス」を「AL-エクサンドロス」「THE エクサンドロス」と誤解され、それが「イスカンダル」になったとwikipediaに書いてあった。

1-5 二つの世界の交差ーペルシャ戦争とアレクサンドロス大王の遠征

ペルシア戦争とは、ダレイオス大王が、ギリシア人に象徴的貢物として水を入れた甕と土を入れた箱をギリシアが大王に送り臣従の意を示すことを求め、ギリシア人がそれを拒むことで起きた。当時のペルシア人にとり、ギリシアは文明の西端だった。ダレイオスの愚鈍な息子クセルクス1世は父親以上の痛手を負い、ペルシア人のヨーロッパでの冒険は終わった。
その150年後、マケドニア王国のアレクサンドロス大王(BC356-BC323)がペルシア帝国を滅ぼした。アレクサンドロス大王が征服したのは、すでに「世界」を征服していたペルシアだった。
ペルシアの神話や伝説には、アレクサンドロス大王が頻繁に登場する。彼は桁外れの豪傑として描かれているが、まるっきり肯定的に評価されているわけではない。といって、まるっきりの悪人とされているわけでもない。イスラム世界の都市には彼にちなんだ名をつけたものが少なからずある。エジプトのアレクサンドリアが著名だが、タリバンが本拠としたタカンダハルもそうだ。カンダハルは「イスカンダル」の「イス」が脱落し「カンダル」が訛ったものだ。
アレクサンドロス由来のアフガニスタン北部のギリシアバクトリア王国でギリシア美術の影響の強い仏教美術(ガンダーラ美術)が生まれた。

1-6 パルティア王国―ペルシア人の復権

ペルシア系パルティア王国の軍隊は、我々のイメージする封建時代のヨーロッパ騎士によく似た完全装備の戦士を史上初めて登場させた。
中国を統一させた漢王朝の全盛期とパルティア王国の全盛期はほぼ一致する。紀元前53年、パルティア軍はローマ軍を粉砕し、カエサルポンペイウスとともにローマを統治していたクラッススを死に至らしめた。

1-7 イスラーム前夜のミドルワールド―サーサーン朝とビザンツ帝国

3世紀に地方有力者がパルティア王国を倒し、サーサーン朝ペルシアを建国した。ヘレニズム文化の影響を一掃し、ペルシア流の制度・組織を復活した。ゾロアスター教が国教となった。仏教伝道僧がアフガニスタンから西へ来たが、ペルシアには定着しなかった。
ローマ帝国は皇帝ディオクレティアヌスが東西に二分した。西ローマ帝国は衰退し、ゲルマンが帝国へ侵入し、法も交易も教育制度も破壊され、西ヨーロッパ人は読み書きができなくなり、暗黒時代と呼ばれる沈滞期に入った。社会は、戦士・農奴・聖職者の3階層に分裂した。何等の共通点を持たない人々を結びつけていた唯一の機関がローマ司教(後に教皇)を頂点とするカトリック教会だった。
コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国はその後も続いた。住民は依然としてローマ帝国と称していたが、後世ビザンツ帝国と呼ばれた。ビザンツ帝国の宗教は東方正教会キリスト教だった。聖職者の上にはビザンツ皇帝が君臨していた。

2-1 ムハンマドの誕生

西暦6世紀後半、アラビア半島沿岸には多くの都市が栄えていた。アラブ商人はゾロアスター教にもキリスト教にも通暁していた。アラブ人は、ユダヤ人と同じセム族で、イブラーヒーム(アブラハム)の子イスマーイール(イシュマエル)の子孫とみなしている。旧約聖書の伝承はアラブの伝承にも組み込まれた。アラブ人の大多数は多神教で、ユダヤ教徒は先祖伝来の厳格な一神教だったが、それ以外の文化や生活様式は違いがなかった。
イスラムの預言者ムハンマド(570頃〜632)は紅海近くの国際色豊かな都市マッカ(メッカ)で生まれ育った。マッカには100以上の神々を祀る神殿があった。巡礼者のための観光業が盛んだった。ムハンマドの父は彼が生まれる前に他界し、彼が生まれてすぐ母もこの世を去った。ムハンマドはマッカの名門部族クライシュ族だったがその中でも貧しいハーシム氏族だった。彼は祖父に育てられ、祖父の死後は伯父に引き取られた。伯父は我が子同然に育てたが、ムハンマドが生涯、寡婦や孤児に思いを寄せたのは、幼い日の境涯によるものだった。
25歳のムハンマドは裕福な商人の寡婦ハディージャに雇われ、女主人の代理をつとめるようになった。やがて二人は結婚した。25年後にハディージャが亡くなるまで、二人の関係は冷めず、彼女が生きている限り一夫多妻のアラブ社会では珍しく、ほかの妻を娶らなかった。
ムハンマドは40歳が近づくにつれ、今日でいう「中年の危機」が訪れ、人生の意味を思い悩んだ。マッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想に耽った。ある日尋常ならざる経験を得た。
一説では瞑想しているとき、「何か文字が書いてある絹の衣」が現れた、とムハンマドが語ったとされている。広く受け入れられているのは、大天使ジブリール(ガブリエル)がムハンマドを訪れたというものだ。この経験の後、ムハンマドは家に逃げ帰り、妻ハディージャに一部始終を語った。ハディージャムハンマドの最初の信徒、最初のムスリムとなった。
マッカの数ある聖堂の中に、黒い石がはめ込まれた立方体状の神殿があった。この石は過去に天から落ちてきたと言い伝えられている。たぶん隕石だろう。このカアバ神殿は、イブラーヒーム(アブラハム)が息子イスマーイールとともに建立したとされている。ムハンマドはイスマーイールの子孫だと任じていた。ムハンマドは自分が何か新しいことを説いているとは夢にも思わず、カアバだけをアッラーAllahの神殿とみなした。
アラビア語のAlは英語の定冠詞「the」に相当し、lahは「神」を意味するイラーフilaahの省略形である。したがって、Allahは単に「神」を意味する普通名詞でしかない(と筆者は言う。訳注には絶対神の固有名詞とする説もあるとのこと)。ムハンマドは、Lahが「唯一真なる神」でそのほかの神々は偽物だとは言わなかった。唯一なる神はあまりに包括的で普遍的な存在だから、いかなる特定のイメージ・属性・有限の観念・限定を課すこともできない、と説いた。

2-2 ヒジュラ―マッカからマディーナへ

宗教がらみの観光で儲けていたマッカの実業界はムハンマドに脅威を感じてきた。
西暦619年前後一年の間に、ムハンマドを守り支えていた伯父と妻を相次いで失った。クライシュ族の7人の長老はムハンマドの暗殺を計画した。この長老たちはみなムハンマドの親類だった。ムハンマドは事前に暗殺計画を察知した。
マッカの北方220マイル(350km)の町ヤスリブから、部族間の調停者になってほしいとムハンマドに要請の使者が来ていた。ムハンマドは承諾した。
西暦622年、ムハンマドの暗殺が決行された夜、ムハンマドはマッカを逃れた。ムハンマドのベッドには後に彼の義理の息子となるアリーがいて、暗殺者と対峙した。
ムハンマドと信奉者たちはヤスリブに移住し、町の名はマディーナ(メディナ)と改まった。この移住はヒジュラと呼ばれる。イスラム暦はこのヒジュラを紀元とする。

2-3 ウンマ

ヒジュラにより、ウンマと称されるイスラム共同体が誕生した。ヒジュラ以降、ムハンマドは共同体の法律や政策を決定する指導者となった。
イスラムは宗教であると同時に、信仰に基づく社会事業を行い、イスラム共同体に加わることで部族の紐帯を断ち切るという、政治的な存在だった。イスラムは正しい共同体を築くための青写真を提示している。イスラムの社会事業とは、孤児や寡婦が悲しまず、恐れずにすむ世界を築くことなのだ。

2-4 マッカ軍との闘争―バドル・ウフド・塹壕の戦い

クライシュ族ムハンマドの暗殺を断念していなかった。クライシュ族ムハンマドの首に莫大な懸賞をかけた。マディーナを襲撃する資金を稼ぐためマッカ商人は隊商を増やした。ムハンマドはそれに対抗するためムスリムを率いて隊商を襲撃した。
一年の後、1000人のマッカ住民が武器をとり、マディーナに進軍した。300人のムスリムはマッカ南西の地バドルで迎え撃ち、ムスリムが完勝した。クルアーンコーラン)は、このバドルの戦いが、アッラーがいかなる戦闘の帰結も決定できることを証明している、と述べている。
ヒジュラ暦3年、クライシュ族は3000人を率いてマディーナに進軍した。ムスリムは950人の戦士で迎え撃った。
イスラム草創期の重大な意味を持つ戦いの2つめは、マディーナ郊外ウフドの戦いだった。はじめはムスリムが優勢だったが、マッカ軍の後退を見てムスリム軍の一部が持ち場を放棄し、戦利品をかき集めようとし、その背後をマッカ軍が突き、結果、ムスリムは敗走した。
この戦いはムスリム神学に取り入れられた。アッラームスリムに教訓を与えたのだと。ウフドでは預言者の命令に逆らい戦利品漁りをしたから、アッラーの恩寵を失ったのだと。ムスリムは、アッラーの意志に服従し、命じられたとおりに行動することで、恩寵を獲得しなければならない。敗北をこのように解釈するのは後世繰り返された。13世紀にモンゴルの遊牧民イスラム世界を席巻した時にも。18世紀以降今日まで続く西洋人のムスリム支配にも。
2年の歳月を費やし、クライシュ族は次の襲撃計画を練った。1万の兵力を編成した。当時のこの地域としては想像を絶する大部隊だった。ムハンマドはマディーナの周りに塹壕を掘らせた。クライシュ軍のラクダは塹壕を越えることができなかった。マディーナの主要ユダヤ教部族の一つクライザ族は秘かにマッカ側と内通していた。マッカ軍の苦戦に内通者は怖気づいた。内通は露見した。砂嵐が起こり、クライシュ族は撤退した。ムハンマドはクライザ族を裁判にかけ、反逆罪として公開処刑した。
アラビア地方全域にこの出来事は衝撃をもたらした。軍事的に見ると塹壕の戦いは引き分けだった。だが1万の兵を召集して勝利を得なかったクライシュ族は敗北したのと同じだった。ムハンマドは主張する通り、唯一の神に支援されているのか? イスラムへの改宗者は劇的に増加した。
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20130407/1365337682へ続く

イスラームから見た「世界史」

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