カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

「詩」の未来と、日本人の言語能力を著作権法が侵蝕している件について

中学受験から「詩」がほぼ消えかけている。ていうか消える。「詩」人は「著作権」についてとくにやかましく、つまり入試問題に使用される際に著作権を主張するので、受験校としてはうぜえから「詩」を出題することを避けることとなる。ところでこんなことをして日本の「詩」は生き残れるのだろうか? 相当に怪しいと私は思う。
他国の場合、「詩人」は尊敬されることが多い。国と国が陸続きであるので、それぞれの言語を鍛え守らねばならず、それぞれの言語圏の言葉を豊かにしているのは「詩人」だという意識がそれぞれの言語圏で共有されているからだ。
日本において「詩人」は尊敬されているだろうか? というより、尊敬に値するだろうか? 日本語表現は詩人によるよりもむしろ翻訳によって表現が豊かになったのがこの140年間ではないかと思う。1960年代くらいまで、情緒を基調とした文学系統の言語と、理性を基調とし翻訳語によって切磋琢磨した他の学問の系統の言語が日本では断絶していたように思うが、その後、後者が前者に浸透し、日本語をずいぶん鍛えたように私は思う。それと比べ、「詩」の日本語への貢献度はどの程度のものだろうか、と私は疑う。
日本において「詩」の位置と価値はたいへん危うく脆いところにそもそもある、と私は思う。その上で受験国語から詩が消えたら、詩の読者はごく一部のマニアを除き、日本から消滅しても不思議ではないと思われる。受験国語は、一定の制限付きながら、日本人の言語感覚と言語空間を涵養している。詩はそこから自ら脱落したいと意思表明をしたわけである。
…「著作権」は受験国語の場においては日本人の言語力を損なうために、日本人子弟の言語能力育成を阻害するために運用されている。
思うんだが、「入試関係・受験教材関係において、版権をフリーとする」作家集団作品集団の民間登録制組織がもしあったら、受験国語はその民間登録制組織が実質指導できることになろうかと思う。有力出版社とかはこれを真剣に検討するほうがよいと思う。「受験国語に出る小説・論説文」というキャッチコピーで、一定数の購買層が確保できるはずだ。商売的にそれなりに旨みがあるはずだ。

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画像はhttp://piapro.jp/content/zuxpb6mep8qdpdlr (24)から。