カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

『けものフレンズ』に関連する豆知識とか、連想した事柄とか

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第一話カバについて
https://twitter.com/takaniso/status/828996241430175744/photo/1
自分の身は自分で守り、ほかの動物による助けを当てにしないというのは自然界の鉄則であり、第一話のカバさんはその鉄則を主人公へ諭している。
ところでカバは他の動物を助けようとする珍しい性格の動物である。
http://labaq.com/archives/51703633.html
http://danshireview.com/archives/996
だからカバさんはサーバルと別れるときしつっこく世話を焼き、サーバルとかばんちゃんを助けようとするのである。
かばんちゃんがサーバルを助けようとしたことへカバは好意を示しているが、他の動物を助けようとするのは地上最強級の獣だけに許された特権であり、カバと人間はその特権階級に属する。

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第二話ジャガーについて
俺は第二話登場のジャガー姉さんが好きすぎて好きすぎて。現時点までのフレンズで誰かひとり伴侶を択べ言われたらアルパカとジャガー姉さんのどっちを択ぶか鼻血出すくらい苦悩してジャガー姉さんを択ぶと思う。
第二話全体で驚き慄いたのは、第二話ではかばんちゃんたちはフレンズたちにかなり過酷な要求しているのに、フレンズの誰もヒステリーを起こしていない。この人格的安定感。とくにジャガーって中大型ネコ科肉食獣なのに、不機嫌になった瞬間かばんちゃんやサーバルを食い殺せる実力があるのに、何その人格的安定ぶり。渡し舟的「仕事」だって「仕事」と名乗っていても実際のところ遊戯込みの無償活動だし。
第二話見た後思い出したのは、誰にも見せたことのない俺の習作時代のマンガのキャラ達で、俺はキャラを動かすとキャラがヒステリーを起こすという習性が習作時代あって、それは四六時中ヒステリー起こしている我が老母に四六時中過干渉されていたためなのだが、設定上人格安定者のはずなのに描くとヒステリー者としてのリアクションしかできないって何それというのが習作時代の切ない思い出で、そんなしょっぱい思い出がよみがえった。ジャガー姉さんはいつヒステリー起こしても不思議じゃない程度の要求されていたのに、この圧倒的人格的安定感。凄い。人格の安定ぶりに見ていてくらくら眩暈がする。

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第三話アルパカについて
アルパカ可愛いよアルパカ。あの栃木弁愛おしすぎる。俺の家業の店員としてアルパカを雇うことができたら俺は残りの余生を満ち足りたものとして生きていける。
栃木にはアルパカ牧場が複数あるみたいで、解説のお姉さんは栃木アルパカ牧場http://www.nasubigfarm.com/みたいだが、他に那須どうぶつ王国アルパカの丘http://www.nasu-oukoku.com/world/farm/alpaca.htmlとかあるようだ。
ところでアルパカのカフェの内装にはモデルがあって、アプリゲーム時代の企画で2016年7月に秋葉原私設図書館シャッツキステhttp://schatz-kiste.net/index.htmlでコラボ企画があって、https://webnewtype.com/news/article/82161/ その時の内装をアニメで再現しているのだそうだ。

帰省して6年

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田舎に帰ってからだいたい6年経つ。5年前幸いにして嫁を得て、4年前幸いにして娘を得た。
ところで、田舎に来た当初、同業者で俺より5歳くらい若い、見るからにオタクな観光業二代目がいた。ああ、俺の余生は彼を友人として過ごすのだな、と思っていた。
ところが彼の父親は微妙に転業して、我が集落にあったペンションを売却して、別集落で貸別荘業を始めた。
集落が違うと行政単位的に別物で会う機会がほぼ皆無だ。その二代目に会いに行けないほどの距離ではないが、わざわざ会いに行くには不自然な程度の面識度で、つまり自然に親しくなるという回路は断たれ、なんちゅうか、残念だ。
俺の住む町村はマイルドヤンキー以外の人種はほぼ皆無だ。俺の住む町村で『まどかマギカ』の話題が通じそうな人間は彼だけだった。残念だ。

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自営業で観光業だと、家族以外誰にも会わないで1か月ぐらいすぐ経過する。家族単位で引き籠り同然。(宿泊客とは会うが、コンビニ店員と会うのと等価だ)
村の会合で誰かに会ったとしても良くてマイルドヤンキー、悪ければ極悪ヤンキー。

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始皇帝の夫人たちと、劉邦についてのおもいつき

今、藤田勝久『項羽と劉邦の時代』を再読している。kindleで。
32%位置No.1156に以下記述があった。

史記』には、なぜか始皇帝の夫人について、まったく記されていない。しかし始皇帝までの秦王の婚姻をみれば、すでに昭王と孝文王が楚から夫人を迎えており、趙に人質であった荘襄王(子楚)が、趙姫を夫人としていた。

筆者は、始皇帝の長子扶蘇は楚の王室につながり、末子で二世皇帝となる胡亥は戦国趙の王室につながるんじゃないかと推測している。
ところで以下はカマヤンのおもいつきなんだが、始皇帝の夫人について『史記』で記されなかったのは漢王朝でのタブーに触れていて、たとえば劉邦呂后がともに扶蘇の母親である楚の王室の付き人の家系だったとかそんなことがあったんじゃないかなとか想像するんだけど、だから劉邦は若かりし頃ヤクザみたいな生活していて亭長という役職にやっとこさ就いたのに豪族である呂氏から夫人を娶り、県の役人である蕭何から目をかけられていた理由じゃないかなとか想像するんだけど、同時に漢王朝時代に始皇帝の夫人について語られなくなった理由じゃないかと想像するんだけど、以上思い付きを忘れてしまうのはもったいないと思い記す。

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『沈黙』に寄せて、96年遠藤周作追悼文

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遠藤周作が亡くなった頃になんか書いたな、と思い、webアーカイブを探していたら以下出てきたのでここに残す。

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追悼遠藤周作
(以下は、パソコン通信「NANAYAツインシテイツマンション」に発表したものです)
96-10-03 Thu 21:24
   レポート ;遠藤周作のイエス像(遠藤周作逝去によせて)
 私はまともな文学に殆ど触れていない文学音痴ですが、遠藤周作作品は愛読書もありますので、追悼の意を含めて、駄文を綴ります。
 「現代」の不幸は、人々が、信ずるべき拠り所を失っているところにある。…私はこのように考える。現代を生きる私たちにとって、信じることができるものは、あまりに少ない。しかしながら人にはその信ずるべき拠り所が必要なのである。世界の中で、背中を預けるものなく、寒風にさらされることは、人には耐え難いのだ。いわゆる「現実世界」という代物は、見ることはできても、知ることはできても、信じるに値するリアリティを持っているようには思えない。説得力がないのだ。頬に風を感じない。肌に体温を感じない。そして自分がここにいていいのかわからない。自分の心は人に伝わらない。そのことは耐えられないのだ。人は弱いのだ。徹底して弱いのだ。心はいつも貧しいのだ。それを必要とするが故に、人は「本当に信じられるもの」の代替品を誤って選びとる。ある人にとってはそれがオウムであった。或いは別なカルト宗教だった。或いはそれは陰謀論という世界の見方であった。或いは何かの政治運動だった。或いは現実を打開する「指導力」をもつカリスマであった。現実世界の救世主だった。
 しかし、遠藤周作がたどりついたキリスト像・イエス像は、「現実世界において全くの無力な人間」であった。彼のイエスは、何一つとして「奇跡」を起こすことはできない。超能力など何もない。彼は非力な人間にすぎない。
 『キリストの誕生』のなかで、遠藤周作はイエスをこう言う。

 …イエスは同時代の全ての人間の誤解にとりかこまれて生きねばならなかった。短い生涯の間、民衆も敵対者も、弟子達さえも彼を全く理解していなかった。味方である者も勝手な夢と希望とをイエスに託そうとした。イエスは自分の意志とは根本的に違った大衆の期待の中で孤独だった。庶民たちは彼に愛よりは現実的な効果を求め、大衆は彼をローマに蹂躙されたユダヤを再び「神の国」に戻す地上的な救世主だと守り立てようとした。こうした身勝手な期待と興奮は一時はガリラヤの春と呼ばれる熱狂的な人気を生んだが、やがてイエス自身に大衆の考えるような地上的救世主の意志がないことを知ったとき、彼らは反転してイエスから去って行った。大衆の目には無力な存在としてしか彼は映らなかった。弟子達ですら彼を見捨てたのは、彼が自分達の夢に値しない、何もできぬ師として映ったからである。だが聖書の深い問題はそこから始まる。無力だったこのイエスが何故その死後、神の子と見なされたのか。彼が十字架にかけられた時、見捨てて逃亡したあの弟子達がその後何故、命をかけてイエスの教えを広めようとしたのか。イエスは何故無力なるイエスから栄光あるキリストに変わったのか。弱虫だった弟子は何故、強い信念と信仰の持ち主になったのか。(『キリストの誕生』より)

 イエスは、出会った人々の心に深い影を残した。彼がなし得た奇跡はそれだけだった。遠藤周作は、『イエスの生涯』で、さらにこう述べる。

 …イエスがこれら不幸な人々に見つけた最大の不幸は彼らを愛する者がいないという事だった。彼らの不幸の中核には愛してもらえぬ惨めな孤独観と絶望とがいつもどす黒く巣くっていた。必要なのは「愛」なのであって、病気を治す「奇跡」ではなかった。人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた。自分の悲しみや苦しみをわかちあい、共に涙を流してくれる母のような同伴者を必要としている。(『イエスの生涯』より)

 永遠に人間の同伴者となるため、愛の存在証明をするためにイエスは最も惨めな形で死なねばならなかった。人間の味わう全ての悲しみと苦しみを味わわねばならなかった。そうでなければ、彼は人間の悲しみや苦しみを分かち合うことができぬからである。
 「アガペー」(愛)という言葉は「共に」ということを意味する。共に喜び、共に泣く。遠藤周作のなかでイエス像は、「永遠の同伴者」として、母親的なものとして結晶していき、それがために従来のカトリックからは非難すら受けた。しかし彼の説くイエス像は、日本人の心にしっとりと染み込む慈愛に満ちている。
 確かサルトルだったか。「飢えた子供の前で文学は何が出来るか」という命題を立てたのは。遠藤周作作品は、それに一つの回答を与えている。飢えた子供の前には、美味しい食べ物の他は、全くの無力だ。だが、人は、食べ物を持っていないときでも、その子供の手を握り、背中を撫でてやることはできる。そしてそれは無駄ではない。
 余談ながら、私の祖母は非常に病弱で生前幾たびも生死の境にいたことがあった。そして祖母は、こう言ったことがある。
「病気で本当に苦しいときに欲しいものは、誰かが手を握ってくれていることだ。それがあるだけで、どれだけ安心することか」
 遠藤周作のイエス像は、大事な示唆を与えているように思う。人が人に出来ることは、苦しいとき、手を握ってやる事だけなのだ。イエスですらそうだったのだ。そしてそれが最も大事な事なのではないかな。と。 
誰かさん記す

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我が嫁の箴言

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既婚女性は、旦那か、舅姑か、小姑に苦労する。
いかに苦労しているかが、既婚女性間のコミュニケーションツールであり、いかに苦労しているかが勲章である。
まれに三重苦がある。

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上記存在に対して嫁は従属するべきもの、という社会圧力があるため、既婚女性はきつい思いを強いられる。

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我が家の場合、我が老母がかかあ天下の道を開いたので、旦那への苦労は比較的少ないようだ。
だがその表裏で、姑による苦労はひどい。俺が我が老母が死ねばいいのに感じるより少し柔らかい程度に。

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