ネットと「ムラ社会」
『タテ社会の人間関係』の「田舎っぺ」から連想したので、以下、2002年12月31日頃書いたものを転載する。
「ムラ社会」の作法と「都市(非ムラ社会)」の作法
インターネットは、「自由」で「平等」だ。原則的に誰でも発言できる。この作法は、都市的(非ムラ社会的)だ*1。ムラ社会は、ムラの住民全員が顔見知りだ。そこでは顔見知りだからこそ、の、ルールが支配する。都市では、住民全員が「顔見知り」なわけがない。よって「顔見知り」ルールを前提としない(見たこともない「同胞」への愛情・一体感をナショナリズムと呼ぶ。「ナショナリズムについて」http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1038415480/2-15 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1025577785/60-69)。ムラ社会の作法を、不特定多数が利用することを前提とするweb掲示板へ持ち込もうとすると、「厨房」と呼ばれる。
ムラ社会では、しばしば互いの情緒に神経を尖らせることが求められる。かつて農村では、田植えも稲刈りも家を建てるのも葬式も、村総出でなされていた。村総出でなければこれらのことができず、生活できなかった。その結果、常に相手の感情を忖度することが、ムラ社会でのマナーとなる。
「都市」では、村総出で何かをする、という必要はない。労働は、個人個人が企業へ行き行ない、そこから貨幣で報酬を受け取る。そこに村は関与していない。家を建てるのは不動産屋と建築業者へ貨幣を支払えるかどうかだけだ。村住民に基礎工事をしてもらう必要はない。そのため、ムラ社会とは求められる作法がごく当然異なる。
都市では、相手の感情を忖度してもあまり意味がないばかりか、余計な誤解を生じるだけにしかならない。むしろ都市では自分の前提と他者の前提がごく当然のこととして異なる、ということへの配慮がマナーとなる。たとえば園芸板住民と、シャア専用板住民では、前提としている情報が違う。政治思想板のノリでほのぼの板ヘ書き込みしたら、それは「厨房」だ。「自分の中学校で流行っていることは、2chでも当然通じるはずだ」と考えたら、「厨房」だ。
脳内にあるムラ社会作法で都市的問題を処理しようとすると、個人レベルでは、パンクする。
また、政治レベルでは、都市的問題をムラ社会作法で処理・解消しようという言説は、結局のところ、ごく一部の既得権益集団というムラ社会を温存させることに加担することになる。
「自己決定権・拒否権」での「ムラ社会」作法と「非ムラ社会」作法
ムラ社会は、自己決定権・拒否権を、否定する。自己決定権・拒否権の発動は、トラブルの元だからだ。日本のムラ社会では、大勢に従う、というかたちで自己保身を担保するよう求められる。「大勢に従う」ことをムラ社会では「民主主義」としばしば誤って呼称するが、自己決定権・拒否権が許されない「民主主義」など、ありえない*2。
「民主主義」を否定する言説は、しばしば、ただ単に「ムラ社会」作法を誤って「民主主義」と呼称し糾弾しているだけのことがある。自己決定権・拒否権への尊重が、正常な「民主主義」の基盤である*3。自己決定権・拒否権は、「自由権」の根幹だ。
「自己決定権・拒否権」発動を許容しないムラ社会は、日本では、本心と異なることを「人間関係を円滑にするために」発言することを要求する。ウソをつけ、と、ムラ社会は要求する。ウソをつくことへのペナルティはムラ社会には存在しないが、本心を語ることへのペナルティはムラ社会に存在する。「自己決定権・拒否権」を許容しないムラ社会は、必然的に、「思想信条の自由・言論の自由」を許容しない*4。
自己決定権・拒否権を許容しない社会では、「ホンネとタテマエ」を使い分けることが、作法となる。「タテマエ」は常に従順であることを要求し、「ホンネ」は常に不従順であることを要求する。
しばしば、「自由」という語をこの「ホンネ」のことを差すと勘違いしている人がいるが、全く別物だ。自己決定権・拒否権が「自由」権であり、「ホンネとタテマエの使い分け」を作法とすることは、「信条の自由・言論の自由」と理念的に対立する。
「性」を巡る「ムラ社会」視点と「非ムラ社会」視点
「性」は、「ムラ社会」視点では、「ホンネ」領域に配置され、表(「タテマエ」)では語ってはならないことというマナーが要求される。これにより、「ホンネ・タテマエ」図式は強化され、「自己決定権・拒否権」も否定される。
だが、性疾患・妊娠などはごく当然のこととして、生命安全に関わることであり、近代社会では公的問題の1つだ。*5
「教育」を巡る「ムラ社会」視点と「非ムラ社会」視点
「教育」は、「非ムラ社会」の代表的な領域だ。一応、理念上は。ある種の人々が「性教育」という言葉を聞いた瞬間、激しい反応を見せるのは、その人々の脳内にあるムラ社会ユートピアに亀裂が生じるからだ。脳内ムラ社会ユートピアは隅々までタテマエが浸透した社会であるべきであり、そこに「性」というホンネ領域が配置されることが耐えがたいのだ。また、同時に、脳内ユートピアはホンネ幻想でもあるから、鏡面として、隅々までホンネが充たされた像も反射的に脳内に登場する。一瞬たりとも安定したところのないカオスの像をその人々は同時に見る。それは当人の無意識下の欲望にすぎないが、他者にそれを投影し、憎悪する。
また、「自己決定権・拒否権」の養成は、「教育」(学習)の本質だが、「自己決定権・拒否権」を許容しない「ムラ社会マナー」の枠組で思考すると、「性教育」という言葉自体が、「(要求された側が)望もうと望むまいと関係なく、(機械のように)セックスして奉仕せよ。要求された側はそれを受け入れよ」というニュアンスに聞こえるらしい。
「性教育」とは、他者からのセックスの要求をどう拒絶するか、を、含むが、その視点が、「ムラ社会」視点では(必然的に)欠落している。
「ホンネ・タテマエ」図式で解釈すると、「教育」は、「タテマエ」を強要する場所だ。残念なことにそれは実体のかなりの部分と合致しているがそのような実体が望ましいわけではない。
「ホンネ・タテマエ」図式を解除して、本来の「教育」を考える場合、当人及びその周辺の人々の生命安全を守ることが情報として最優先されるべきだ。生命安全に関わる情報、性教育は、最も優先されるべき情報の1つだ。理念的には、最も「教育」がフォローするべき分野だと言える。
「ムラ社会」作法の弊害
「ムラ社会」人間関係に馴らされると、以下のような弊害が発生する。
1;無力感を強要される。
「自己決定権・拒否権」が許容されないからだ。政治的自己決定権・政治的拒否権も必然的に実感を覚えない。そのため、政治という言葉に過度に悪魔的イメージを持ち、「性」という言葉に過度な幻想を抱くようになる。
2;「言論の自由」競争自体を軽蔑する。
「ムラ社会」マナーでは「いいこと」は「対立しないこと」なので、異なる意見により対立してしまうこと自体を罪悪だと考える。異なる意見が互いに「正当性」を「競争」するのが「言論の自由」競争であり、人の知性はこれによって増大しより高度な次元へ上る。が、ムラ社会視点では「対立」「論争」はそれ自体罪悪で非道徳的だと感じるので 「敵」は殲滅するべきだ、という発想にのみ囚われ、言説が高度化しない。結果、人の知性の増大に寄与しない。
3;正誤判定・正当性の問題と、情緒の区別がつかない。
「ムラ社会」マナーでは、「自分に気遣いしてくれるかどうか」「自分をヨシヨシと肯定してくれるかどうか」だけが全ての基準なので、言説が正しいか正しくないかではなく、「自分に気遣いしてくれるかどうか」「自分をヨシヨシと肯定してくれるかどうか」だけで物事を測ろうとする。
「自分に気遣いしてくれるかどうか」「自分をヨシヨシと肯定してくれるかどうか」は正しいか正しくないかとは全く関係ない。
政治的に誤ったことを継続すれば政治的に敗北するし、事実と異なることを異なっていると自認できなくなれば、精神失調をきたす。
〔補足〕
「メディア」
コミケや同人誌、インターネット、2ch、学校も、メディアだ。フランス革命は、カフェ(喫茶店)という「メディア」の発達が1つの起爆剤だった。カフェ登場以前は教会の日曜学校という「メディア」が支配的言説(王党派に都合のいい言説)を流していた。
メディアの発達と、近代化は、相補的だ。印刷技術という「メディア」の発展が、欧州の近代化をスタートさせた。「民主制」
「民主制」は、見たこともない他人が見たこともない他人へ説得する、見たこともない他人を支持する、という、「都市」ルールに下支えされる必要がある。これを「ムラ社会」での情実作法、「顔見知りは特別扱い」の作法で行なおうとすると、汚職と不正だらけになる。誰を「社会の構成員と見なすか」、は、重要な争点となる。
情実を前提とした組織は「二重規範」化する
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1039180795/2-22
自由と民主主義
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1033569005/18-82
*1:人口流動がない閉じた小世界、中世的村落共同体を「ムラ社会」と呼び、人口が密集し人口流動する場所を「都市」と呼ぶ。近代化は、社会が都市化していくことを差す。http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1025577785/73-74
*2:自由を許容しない「民主主義」は、全体主義(ソ連、ナチスドイツ)というかたちで一応歴史上存在した。が、日本では、同時代に神政政治が行なわれ、近代化の過程でなされるべき、政治システムとしての民主制は血肉となっていない。全体主義への拒絶言説は、しばしば、近代政治システムである民主制自体への否定言説として流用される。
*3:山本七平の『空気の研究』という著述は、日本政治での自己決定権・拒否権の問題を欠落・隠蔽させて、「空気」という言葉でもって、権力問題を曖昧化させ知的混乱を読者へ要求している。バカ本なので読まなくていい。
*4:「相互に矛盾する思想を『無限抱擁』して、精神経歴に『平和共存』させる思想的「寛容」の伝統にとって、唯一の異質的なものは、『精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想』だった。」http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1040696215
*5:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1033569005/2-13 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1024022967/46-49