さよなら僕らの偉大なお父様、マッカーサー元帥
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マッカーサーを靖国神社に合祀せよ!
これ↑読んで思い出したけど、マッカーサーの銅像を東京湾に立てようという話があったんだよね。日本現代史にはマンガ以上にマンガ的な事柄がごろごろしているのだが、以下の「さようならマッカーサー元帥」エピソードは、まったくもってマンガ以上にマンガ的だ。
一九五一年四月一一日、〔略〕トルーマン大統領が、不服従を理由にダグラス・マッカーサーを国連軍指令官から解任した〔略〕。〔略〕最高指令官が解任されたことは、文民が軍人を指揮するという原則の素晴らしい実例ではあったが、日本ではマッカーサーが受けた屈辱を、可哀相で意外な出来事としてとらえた者が多かった。トルーマン大統領の発表の翌日、リベラル派の『朝日新聞』は、「マッカーサー元帥を惜しむ」と題する社説を載せたが、これは多くの人々の心の琴線に触れた。
われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きてきた。……日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった。
マッカーサーは四月十六日、日本を離れ合衆国に向かったが、その様子はあたかも英雄の旅立ちであった。吉田首相はマッカーサーを訪問して元帥の偉大な貢献に感謝し、解任は「言葉にならないほどの驚きと悲しみ」ですと、個人的な書面を元帥に送った。天皇も、マッカーサーが公式の地位を失った以上、マッカーサーのほうから挨拶にくるべきですと主張する宮内庁の高官の助言を振り切って、みずから元帥の住居を訪ね、最後の心のこもったあいさつをした。天皇とマッカーサーが会ったのは、これで一一回目であったが、最後のこのとき初めて、マッカーサーは天皇をリムジンまで見送った。〔略〕東京都議会は「六三〇万都民」の名において感謝の意を表し、マッカーサー元帥を名誉都民とする条例が施行されるであろうと報道された。「マッカーサーの碑」が建立されるとか、東京湾あたりに銅像がたてられるだろうという話も出た。
NHKは、マッカーサーの離日を生中継で放送した。蛍の光のメロディーが流れる中、アナウンサーは悲痛な声で「さようなら、マッカーサー元帥」と繰返した。学校は休みになり、マッカーサーによれば二〇〇万人が沿道で別れを惜しみ、なかには目に涙をためた人もいた。警視庁の見積もりによると、沿道で見送ったのは約二〇万人であったが、マッカーサーはものごとをほぼ一〇倍に誇張する傾向があったから、なかなか数字の辻褄はあっているように思われる。とにかく、相当な人数であった。吉田首相と閣僚たちは羽田空港でマッカーサー元帥を見送った。天皇の代理として侍従長が、衆参両院からも代表が、羽田で見送った。「白い雲を背景に」マッカーサーの愛機バターン号が飛び立つ情景に、『毎日新聞』は異常なほど興奮して次のように号泣した。「ああマッカーサー元帥、日本を混迷と飢餓から救い上げてくれた元帥、元帥! その窓から、あおい麦が風にそよいでいるのを御覧になりましたか。今年のみのりは豊かでしょう。それはみな元帥の五年八ヵ月にわたる努力の賜であり、同時に日本国民の感謝のしるしでもあるのです」。
出典;ジョン・ダワ−『敗北を抱きしめて 下』(岩波書店、2001年)*1402-405p
最後の口調は今の北朝鮮を全然笑えないのだが、戦後のことですよこれ、北朝鮮体制がいかに日本のコピーであるのかよくわかるが、この話にはさらにオチがある。書くのが面倒臭いのでそれは後日に。
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