カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「内的確かさ」と「外的確かさ」

http://d.hatena.ne.jp/rna/20051207/p4
宮台真司風に「倫理=内的確かさ」「道徳=外的確かさ」というふうに区別すると、

「倫理」と「道徳」に分けた元祖は柄谷行人じゃないかなあ、と思う。「内的確かさ」「外的確かさ」というよりクリアな言葉を提示したところはさすが宮台先生であるけど。
宮台先生の授業を聞いたところから連想すると、「倫理=内的確かさ」「道徳=外的確かさ」は(ウェーバーの?)宗教社会学で、原始宗教・古代宗教・中世宗教、と宗教が発展していくモデルがあるそうなんだけど、
1;古代宗教段階が「外的確かさ」に準拠する仕組み(ユダヤ教の戒律など)、
2;中世宗教段階が「内的確かさ」に準拠する仕組み(聖書のみを拠所意とするプロテスタンティズムとか、阿弥陀仏と信者を念仏のみが仲介する浄土真宗とか)
この両者の価値観の違いを区別するために(柄谷行人宮台真司らによって)使われている呼称が「道徳(外的確かさ)」と「倫理(内的確かさ)」なんじゃないかな。
日本近代史では不幸なことに、明治維新以降、古代宗教的作法によって(王権神授説によって)近代国家を作成したから(伊藤博文の発明品)、中世宗教的ふるまい(近代思想の基盤)が抑圧されることになった、と言えるんじゃないかな。
戦後は古代宗教的作法が矛盾を抱えたので、古代宗教作法が色んなリフォームを試みて、そのリフォームの一つとして現在、カルトがインチキな「内的確かさ(『自己啓発』など)」を商品化して、そのインチキ商品に騙される人が刻々発生しているんじゃないかな。
(全くの余談だけど、宮台先生は「共同体主義か否か」に過度に執着しすぎていて、あらゆる事柄をその対立にのみ回収しようとする、あまり褒められない思惟上の癖がある。あの癖はいかがなものかな、と思う。それで整理できる事柄は多いけど、その分類に回収するのが適さないことまで回収しようとするのはいかがなものかと。と、宮台先生の授業を聞いているときに思いました。)
以下、宮台先生の授業を聞いたときのメモ。

 http://www.din.or.jp/~kamayan/nikki/nikki12.htm#12,7,

教養社会学  宗教について

 社会システム論による、宮台真司氏による宗教の定義は、こうだ。「前提を欠いた偶然性を、無害なものとして受容する(馴致する)枠組の総体」
 「前提を欠いた偶然性」は、「絶対的所与性」ともいう。なぜ私は男なのか? など。
 これの対立概念は、手段的努力によって結果を左右できる偶然性だ。努力によって、結果に一定の蓋然性があるもの。たとえば、受験は、勉強という努力をするぶん、落ちるという結果に至る可能性が減る。これは了解可能なものだ。
 不慮の事故、男女の出会い、これらは前提を欠いた偶然性だ。旧い社会では、人の流入が少なかったので、偶発的余地が少なかった。現代は、偶発性が高い。誰と出会うのか判らない。成熟社会は、偶発性に満ちている。結果、「なぜ俺だけが」という感覚に充ちる。
 春菜ちゃん殺人は、映画『太陽がいっぱい』に通じる問題を表している。「なぜ彼はああも恵まれていて、自分はこんなにも恵まれないのか」個人に関わる前提を欠いた偶発性。春菜ちゃん殺人は、「お受験」の殺人と言われている。「受験」はたかがクジではないか、と非難する者がいる。たかがクジであることが、むしろ重要だ。「自分とは全く異なるラッキーな彼女と、なぜ自分はつきあわなくてはならないのか?」「春菜ちゃんを殺せば、春菜ちゃんの母親とつきあわなくて済むようになる」春菜ちゃんの母の行動には悪意はなかったが、それは殺人者となった母を追い詰めることとなった。
 「神が定めたのだ」と考えることにより、前提を欠いた偶発性を馴致可能にするのが、宗教だ。

宗教進化論

 宗教には、二つの側面がある。偶発性がどう表れるか。偶発性をどう馴致するか。宗教とはこの二つのコンビネーションである。
 主体。「誰にとって偶発性が表れるか」、これには、「共同体にとって」と「個人にとって」がある。
 対象。「どのように馴致するか」、これには、「出来事」での馴致と、「枠組」での馴致がある。

1;原初的宗教【主体は共同体、対象は出来事】

 「なぜこの共同体に、このような出来事が」
 儀式化。儀式は共同体全員参加。ハレの日・祭のときは、ケの日・日常とは別な時間となる。聖・俗の図式が生まれる。
 なぜこの村に災厄が訪れるのか? 昨年の儀式に不手際があったからだ。
 分裂症患者・狂人を、シャーマンとして聖の側に隔離することで、日常を温存する。

2;古代的宗教【主体は共同体、対象は枠組】

 ユダヤ教的宗教。否定の図式。出来事を処理する枠組の創造。戒律化。日常の側で災厄(問題・期待外れ)を処理できるようになる。合法・非合法、美・醜、道徳・不道徳。この枠組は神の定めたものである。枠組の秘蹟化。旧約は、神との契約を守ればユダヤ人は災厄に合わないことを約束しているが、不信心なユダヤ人によって、神との契約は常に破られる。だからユダヤの民は神によりさまざまな災厄を与えられる。

3;中世的宗教【主体は個人、対象は枠組】

 (この段階まで進化したのは、主にキリスト教世界である。ごく一部日本の宗教にもある)
 信仰化。個人の信仰の問題、個人がいかにcommitment(献身、遂行、明確な主義を持つこと)するか、という問題。ユダヤ教徒は、皆ユダヤ民族だ。共同体と宗教が同じだった。その中で、イエスが救世主であることを信じるかどうか、という個人の信仰の問題へ進化する。
 社会学的には、当時、ユダヤ共同体の階層化が深まっていた。戒律を守っても生活できる者と、生活するためには戒律を守っていられない者とがいた。
 イエスのロジックは、二つ。
 一つは、戒律の否定だ。戒律を守っていられる豊かな暇人だけが救われるのなら、それはトートロジー(同語反復)だ。救われている者だけが救われることになる。むしろ、戒律に従えない者こそが救われるべきだ。戒律に従えるほど恵まれた者は、救われない。
 もう一つは隣人愛。これは親を捨てよ、故郷を捨てよ、という厳しい主張だ。自分を突き飛ばそうとする他人を、自分を殺そうとする他人を、愛する。見も知らない他人のために命を捨てる、これが隣人愛だ。
 ユダヤ共同体からの、脱共同体化が、ここでなされる。
 キリスト教地中海世界に布教したパウロは、隣人愛(共同体を超えた愛)を拡大した。地中海商業圏の、ギリシャ語を話す他民族に布教した。共同体を持たない人々へ、浸透していった。これが、「パブリック」という概念のベースとなった。
 古代においては、パブリックと共同体は一致していた。小林よしのり的「公」は、この段階を言っている。
 中世以降、パブリックは、共同体の対立物となる。正しさ、確かさ、神は、共同体の外にある。

4;近代的宗教【主体は個人、対象は出来事】

 『太陽がいっぱい』的問題、「なぜ私だけがこんな目に遭うのか?」「なぜ彼らはいい目に遭って、私はいい目に遭えないのか?」
 全ての枠組を宗教的に説明するのはムリになってくる。多くのことは宗教的枠組を用いず、科学的枠組で説明可能になっている。認識枠組の多元化、多様化。
 宗教はパートタイム的なものとなり、必要な時に穴を埋めるためのものとなる。
 宮台真司氏が80年代に学生を対象として統計した結果、宗教のオリエンテーション(志向)は二つに分かれることが判明した。
 a;個別的問題設定〜行為系。幸せになりたい系。おまじない、呪術で、幸せを招こうとする。世俗的御利益祈願。
 b;縮約的問題設定〜体験系。ここはどこ? 私は誰? 非世俗的意味追求。
 この二つは宗教教団の分類ではない。宗教教団は必ずこの二つを持つ。受け取る側の態度の分類だ。

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