戸頃重基『鎌倉佛教』
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- 作者: 戸頃重基
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1967/04
- メディア: 新書
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神道は氏族ごとの祖霊信仰であり、奈良仏教は部族社会対立を超えた共通基盤として古代日本社会に導入された。機能としては、明治期の「天皇教(国家神道)」導入と同じ。…ということをこの本で知った。以下引用。
日本の朝廷がこの仏教をうけいれたのは、〔略〕部族や氏族の対立をのりこえ、天皇中心の統一国家をめざしているちょうどそのとき、普遍的な宗教をうけいれることが、政治的に国民を支配するためにも便利だったからである。(12p)
「普遍」とは、どこでもいつでも通用する事柄を言う。たとえばどこでもいつでも2×2=4である。こういうものが「普遍」である。日本の中だけでしか通用しないような事柄や特定部族社会でのみ通用するマイナールールは「普遍」ではない。
仏教は古代共同体社会へ「個人」を作っていく(個人の信仰が絶対化するプロテスタンティズムと鎌倉仏教のパラレルな関係そのものについてこの本は言及していないが、当然に下敷きとして考慮に入っている)。
個人の病気に対する不安は、村落の集団的共同儀礼にひとしい神道では除去できなかった。神道に個人の祈りはなく、すべてが共同体的であるのに対して、仏教は個人の生きることへの願望と深く結びついて、独特の呪術的機能を発揮したのである。(17p)
当初、日本の仏教は皇族・貴族社会と結びつき、庶民を踏み台として繁栄した。皇族・貴族が農民を搾取する度合いは酷いものがあった。
当時、皇族・高官の邸宅は、土木の精巧を誇り、国家予算の五分の三はそのために消えた。(21p)
あれ、でも土建事業にばかりムダに税金並びに特別予算(郵便貯金や年金を勝手に行政が運用する)が使われている現在とあまり変らないかな。(余談だけど国債は建設国債だけだからムダな函物ばかりつくるというアホな運用になっている。なっていた。税金並びに特別予算は天下り役人の給与並びに退職金となって消えている。閑話休題)
鎌倉仏教はいずれも比叡山から生まれる。当時の比叡山は僧兵という武装集団を養い、極めて堕落していたが、同時に日本の知性の本山だった。
新仏教者たちがその全生涯をつうじ、教団経営に一切、干与していないのは、比叡山の現状に対する反省と批判があったからである。
しかし、新仏教者が登山した比叡山は、僧兵だけの山ではなかった。僧兵の存在とはまことに不似合いな高尚な文化の花が、山内には咲き乱れていたのである。〔略〕
最澄は入唐、円・禅・戒・密の四宗を伝えた。その中心は、第一の円教(完全な教え)、つまり『法華経』におかれていた。〔略〕最澄が、とくに『法華経』を円教としてもっとも崇拝したのは、この教が、差別的な偏見をしりぞけ、ものごとを平等にみる教理を述べていたからである。〔略〕最澄は『法華経』を、差別するままを平等にみる経典である、と解釈し、のちの日蓮のように、差別を否定する統一を主張していない。だから最澄の場合は、円・禅・戒・密の四宗が、差別のまま共存を認められるのである。のちの比叡山が混合主義(シンクレチズム)の総本山となり、異質の新仏教の母体となりえたのも、一宗だけにこだわらない最澄のこういう寛容な精神に由来していた。(41p)
〔略〕天台法華宗の総本山比叡山だけが新仏教のスタート・ラインになりえたのは、この山が『法華経』を最高の聖典として崇拝しながら、それだけにこだわらない混合主義と寛容を宗風としていたからである。〔略〕党派心のいたって強い空海を開山にあおぐ高野山は、〔略〕比叡山におけるような教学の多元性に欠いていた〔略〕。
最澄は唐で真言密教の洗礼を受けている。最澄の弟子、円仁・円珍らも唐に渡り台密と呼ばれる比叡山真言密教が高野山以上に充実した。密教は呪術である。
鎌倉仏教のなかで、法然と親鸞は他力の信仰を求めて生き、道元と日蓮は自力の修業に打ちこんだ。同じ鎌倉仏教と呼ばれる宗教から、どうしてこうもちがった考え方が選びだされたのであろうか。そのひとつの重大な理由は、法然、親鸞が乱世に際会し、道元、日蓮が鎌倉政権安定後に活躍した、という歴史的背景の差異に求められる。乱世は人間に無力をさとらせ、治世は人間に努力の意義を呼びさますからである。(58−59p)
この本では、鎌倉仏教開祖の人物史を追いかけ、それぞれの思想がどう形成されていったかを述べている。私は日蓮には偏見があったのだが、日蓮の人物史は自分と共通するところが変に多くてその点興味深い。日蓮以外は比叡山に絶望して下山し自分の信仰を作るのだが、日蓮は俗化した念仏宗に否を唱え(念仏宗への偏見が内面に生まれ)、比叡山に憧れて登山し、主観的には比叡山の伝道者・実践者だと自分を捉えていた。よりインテリである親鸞や道元と比べての思索の捩れが興味深い。
〔親鸞の唱えた〕在るがままに生を享受する自然法爾観は、インド、中国には例をみない、日本仏教の特色を発揮したものである。ここでは、「在る」と「在るべき」との人為的な分別がかき消され、したがって「在るべき」ことを指示する倫理が、〔略〕美的観照におきかえられている。(76p)
私は親鸞にわりと好意的なんだが、「在るべき」と「在る」の区別を曖昧化させるのは日本の思惟の宿痾なので、そのルーツが親鸞の思想にあったというのは忸怩たる感じ。
禅などで語る自由とは、煩悩に支配される精神の奴隷状態から解脱することをいう。さとりと自由は同義異語である。(121p)
我々の普段使用する「自由」という語は、仏教用語「自由」をfreedom、liberty(奴隷状態からの解放)の訳語として転用したものである。
現在の時点からふり返っても、けっして古くなっていない親鸞の思想や信仰は、江戸時代を迎える以前に門徒よりも本願寺の指導者によって、本質的にゆがめられていたのである。(156p)
もし本願寺が、親鸞からまちがいなく継承したものがあるとすれば、親鸞によって高くかかげられた念仏の法灯ではなく、親鸞がみずから省みて「恥ずべくいたむべし」といっていた愛欲の炎であろう。「酒は忘憂の名あり」といった飲酒もまた、妻帯と並行して、本願寺が親鸞からうけついだ大切な遺産であったといえるかも知れない。妻帯や飲酒を認めたことは、親鸞の主観的意図とは別に、真宗僧侶の徳性を高めるよりも、堕落させることにあずかって力があった。真宗僧侶は親鸞から、愛欲の懺悔よりも、愛欲を満足させ、法脈と血脈を平然と混同することについての弁解を、賢明にも学び取った。(164―165p)
思想家としての道元の価値を古典のなかから発掘して、それを広く世に紹介したのは、曹洞宗の人たちではなく、〔和辻哲郎や田辺元などの〕いまあげたような学者たちである。(167p)
〔略〕教団のヒエラルヒーは、「禅宗の称たれか称しきたる、諸仏祖師の禅宗と称するいまだあらず。しるべし、禅宗の称は魔破旬の称するなり。魔破旬の称を称しきたらんは、魔党なるべし、仏祖の児孫にあらず。(『正法眼蔵』)」といった道元によってきびしく排撃されていたところである。〔略〕
教団が、いわゆる魔党の類であることについては、皮肉にも道元滅後の曹洞初期教団の動向〔分裂と闘争〕によって、みごとに実証された。〔略〕教団という社会組織が、いかに宗教の本質を疎外するものであるかを、改めて考えさせられる。(168-169p)
〔略〕宗教を信じるか否かは別として、日本民族の光栄たる遺産とも称すべきこの鎌倉仏教から、現代の人びとがなにを継承したらよいかという問題を、読者とともに考えてみたい。
第一に、法然、親鸞、道元、日蓮に共通するのは、世間の政治や道徳よりも、自分の信ずる仏教の価値を、つねに第一義に考えていたことである。これを正法為本の思想と呼んでもよい。〔略〕新仏教とは、律令政治や摂関政治や院政や荘園の利害と密着した呪術的な護国仏教と異なる、個人の仏教に自身と抱負と悦びをもって生きぬく仏教ということである。〔略〕
第二に、鎌倉新仏教の開祖たちに共通するのは、貴賎、男女、僧俗の差別を否定する平等思想を高くかかげて、南都北嶺の貴族仏教がすててかえりみなかった大衆生活の底辺にまでおりていった、ということである。〔略〕比叡山は、〔略〕インド仏教にも中国仏教にもその類をみない、門跡という特権的な制度を、真言仏教と相呼応してつくりだした。門跡とは〔略〕皇子、貴族などのすまう特定寺院のことである。〔略」念仏の平等思想を拡張解釈すれば、念仏の世界では、貴賎、男女、僧俗の差別はなく、したがって賎民は貴族に対し、女性は男性に対し、俗人は僧侶に対し、卑屈にならないで、念仏を唱えながら彼らと対等の自覚と自信をもって生きよ、ということになる。〔略〕
第三に、彼らの日常の宗教生活が実に簡素をきわめていたことである。〔略〕
第四に、法然、親鸞、道元、日蓮の宗教は、簡素な生活のたたずまいに対応して、理論が簡素化され、それが端的な実行力と結合していたことである。頭でっかちの学問仏教では、もとより実践の問題にこたえることができない。しかし、学問や教養のない実践も盲目である。理論と実践の二律背反は克服されなければならない。鎌倉仏教の開祖は学問や理論をけっして軽視しなかった。
ただ南無阿弥陀仏を唱えるだけでよい、と専称仏号の信心を強調した法然も、〔略〕日課の読書を欠かしたのは、ただわずかに寿永二(一一八三)年七月二十八日、木曽義仲(1154-1184)が洛中に乱入したときだけだ、という挿話もあるくらいである。〔略〕
どんなに正義や真理をわきまえていても、ただそれだけならば、正義は不正に敗れ、真は偽に打ちかつことができない。破邪顕正、つまり邪を破し、正を顕わし、真をもって偽を粉砕するには、正義を実践しなければならず、また正義を実践すれば、抵抗や弾圧に出会うのは必定であるから、実践には、自己の良心を武装させる勇気が必要である。勇気とは無分別な勇み足になることではない。熟慮をともない、真理や正義のために、あえて危険を回避せぬ行動のことである。〔略〕こうした真理への意志と勇気を、日蓮の遺産から継承することは、権力悪や社会悪との戦いなしに獲得できない、平和と民主主義を防衛しようとする現代の人びとにとっても、大きな励ましであり、また慰めともなるにちがいない。(192-199p)