内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書
「美徳の不幸」http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20060725/p1さんで紹介されていたので 内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書 を読む。深い内容である。「ユダヤ陰謀論」の本ではない。「『ユダヤ人迫害には理由がある』と思っている人間がいることには何らかの理由がある、その理由は何か」についての本である。読んでいる間に一度紛失して購入しなおして読了した。
1 内容
1-1 「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある、その理由は何か
私〔内田樹〕が本書で論じたのは、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」という問題である。(6p)
私には問題の次数を一つ繰り上げることしか思いつかない。〔略〕「ユダヤ人迫害には理由がある」と思っている人間がいることには何らかの理由がある、その理由は何か、というふうに問題を書き換えることである。
「反ユダヤ主義には理由がある」ということと、「反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある」ということとは似ているようだけれど、問題の設定されている次元が違う。
その問いは「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合か、という問いにも書き換えることができる。(7p)
1-2 ジェイコブ・シフ
私たちは他国の議会で「日本ロビー」が活動していないことを怪しまない〔略〕。うるさく「愛国心」の涵養を言い立て、「日本人としての自覚」を教え込もうとしている当の日本政府もそのような活動にはほとんど興味を示さないし、国民もそれを咎めない。どうしてかというと、それは私たちが「外国にいる日本人のことなんか、どうだっていい」と思っているからである〔略〕。
〔略〕日本国と日本国民の関係を「モデル」にして、社会集団統合を構想すれば、この「非人情」こそが常態なのである。〔略〕(14p)
アメリカにジェイコブ・シフ(1847-1920)という人物がいた。〔略〕
彼は明治末年、日本政府の一部と軍部に忘れがたい印象を残した。それは彼が日露戦争のときに、日本政府が起債した8200万ポンドの戦時公債のうち3900万ポンドを引き受けたからである。シフは帝政ロシアにおける「ポグロム(反ユダヤ的暴動)」に怒り、虐殺陵辱された「同胞」の報復のためロシア皇帝に軍事的な鉄槌が下ることを望んだのである。〔略〕シフは〔略〕ロシア政府発行の戦時公債の引き受けを欧米の銀行に拒絶させた。このユダヤ金融資本ネットワークの国際的支援は日露戦争の帰趨に少なからぬ影響を及ぼした。
〔略〕シフはその後も生涯を挙げて「反ユダヤ」的な帝政ロシアと戦い続けた(日露戦争後は、ロシア国内の革命運動を支援するためケレンスキーに資金援助を行った)。〔略〕
〔略〕シフは彼の「同胞」のために、「個人的な軍事同盟」を日本と締結し、ほとんど「個人的な戦争」をロシアに対して仕掛けた〔略〕。
私はこのようなタイプの日本人を想像することができない。(14-16p)
1-3 「日猶同祖論」の系譜
日本にユダヤ人を存在させたのはスコットランド人の宣教師ノーマン・マクレオドという人物である。彼は〔略〕日本人はユダヤの「失われた十部族」の末裔であるという奇想天外な説を発表した(1875年)。これがその後現在まで語り伝えられる「日猶同祖論」の起源となった。(64p)
「日本人の祖先はユダヤ人である」という「日猶同祖論」はやがて、中田重冶(1870-1939)、佐伯好郎(1871-1965)、小谷部全一郎(1867-1941)らの明治期の宗教思想家たちによって特異な純化を遂げてゆく〔略〕。
「日猶同祖論」のようなユニークな妄想が一個の人間によって創出されるはずがない。当然ながらマクレオドは先行する伝説を剽窃したのである。
マクレオドが参照したのは、イギリスに伝えられた「イギリス人=ユダヤ人同祖論」である。自分たちは「イスラエルの失われた十部族の末裔」であるという説は十七世紀以降、広くイギリスに流布していた。別系統のものとしては「アメリカン・インディアン」はユダヤ人の末裔であるという説、さらにアメリカ黒人はユダヤ人の末裔であるという説も存在している。(65p)
〔略〕中田重冶が説いたのは、聖書には日本人とユダヤ人の関係が暗号で書かれているという「聖書暗号論」である。中田によれば、聖書にある「日いずる国」「東」などの語はすべて日本の暗喩である。だから、有史以来の日本が経験したすべての幸運(元寇の「神風」から日露戦争の勝利まで)はエホバの天佑であることになる。〔略〕
佐伯好郎の説も奇想天外では中田に劣らない。「渡来民秦氏とはユダヤ人のことである」という説である。
佐伯の本来の研究対象である景教は、五世紀に異端とされたネストリウス派キリスト教のことである〔略〕。佐伯は、この研究の過程で、五世紀に秦氏が中国から日本に渡来し京都郊外太秦に定住した事実に注目する。〔略〕佐伯は〔略〕「うづまさ」の「うづ」がヘブライ語の「イシュ」すなわち「イエス」、「まさ」が「メシア」であるという説を立てる。
小谷部の説も佐伯に負けず奔放である。〔略〕〔彼が〕世に問うた本は『成吉思汗ハ源義経也』(1924年)という奇書であった〔略〕。しかし、この奇談を貫く政治イデオロギーは紛れもない皇国史観なのである。(66-67p)
同祖論者の「本音」を酒井勝軍〔さかい・かついさ〕(1870-1939)は次のようにはっきりと吐露している。
「之と同時に、我日本も亦極東の一孤島否一異教国なる不名誉なる地位よりして、一躍世界の神州帝国たる地位に上り来り、基督教を奉ずる欧米諸国を眼下に見下すべき権威直ちに降り来るべし、何となれば彼等は日本は神の秘蔵国にてありしを発見すべければなり」(酒井勝軍『世界の正体と猶太人』)(69p)
日猶同祖論のロジックとは、〔略〕西欧において「罪なくして排斥せらるゝ」ユダヤ人とわが身を同一化することによって欧米諸国の犯罪性を告発する側にすべり込むというものである。〔略〕
ユダヤ人がキリスト教徒に対する霊的な意味での「尊属」であるという事実のうちにユダヤ人への差別や迫害の理由がおそらくは存するということを、日猶同祖論者たちは直感していた。そして、同じロジックを反転させることによって、欧米列強が日本を軽侮し差別するのは、日本が(潜在的に)欧米諸国を眼下に見下すべき「神州帝国」だからであるという、尊属ゆえの受難という物語を成り立たせたのである。(70-71p)
1-4 反ユダヤ主義と日本人
ロシア革命への干渉戦争であるシベリア出兵(1918-22年)において、日本軍はシベリアの反革命勢力を支援した。この時に、赤軍と戦った日本の軍人たちは、白軍兵士に配布されたパンフレットを通じて「ソビエト政府はユダヤ人の傀儡政権である」というプロパガンダにはじめて接することになった。『シオン賢者の議定書』という名で知られる反ユダヤ主義文書の存在を日本人が知ったこれが最初の機会である。(74p)
怪文書というのは出所不明・製作者不明と相場が決まっているが、例外的に『議定書』の成立についてはかなり詳しく知られている。(77p)
この文書のオリジナルは、まことに意外なことに、モーリス・ジョリというフランス人弁護士の書いたナポレオン三世を風刺した政治パンフレットだった〔略〕。
〔略〕『議定書』は、ジョリの政治パンフレットの中の、民衆の愚昧と独裁の効用を説く〔部分〕台詞だけを選び出してコピー&ペーストしたものである。全体の40パーセントがジョリからの盗用であり、『議定書』第7章に至っては全文が剽窃である。〔略〕
〔略〕『議定書』の最大の論理的混乱は時系列上の混乱である。〔略〕これはジョリの『地獄の対話』〔略〕が〔略〕未来形で語っているのに対し、『議定書』では「すでにユダヤ人の世界支配は完了している」という前提の違いから生じた齟齬である。〔略〕
〔略〕時系列の混乱による、この「どうにでも解釈できる」という特性こそが『議定書』を世界的ベストセラーにした真の理由なのである。〔略〕自明すぎるせいで私たちが意識していないことの一つは、国際政治はあまりに多くのファクターが関与する複雑なシステムであるために、条理や一貫性を求める思考はそこで必ず躓くということである。理不尽な話だが、国際政治を語る準拠枠としては、理路整然としたものよりもむしろ当の国際政治と同程度に不条理なものの方が使い勝手がよいのである。(78-79p)
〔略〕『シオン賢者の議定書』的な国際政治解釈を採用すると、人間は頭が悪ければ悪いほど政治的には正しくなる仕掛けになっているのである。〔略〕この法則は私たちの時代の成功した政治的イデオロギーのほとんどにも当てはまるのである。
愚者の福音書である『シオン賢者の議定書』は大正年間に日本に入ってきた。その代表的な宣布者が先に名の出た酒井勝軍である。彼もまたキリスト教徒であり、アメリカで学んだという点で、中田重冶や小谷部全一郎に似た経歴を持っている。そして、彼らと同じく、神国日本の歴史的使命の成就とユダヤの民の「シオンの地への帰還」を結びつける集合的な日猶同祖論者であった。(80p)
酒井は〔略〕『猶太民族の大陰謀』、『世界の正体と猶太人』といった毒々しいタイトルを持つ著書を次々と刊行して、ユダヤ人が「赤はボルシェヴィズムより、白はデモクラシイに至るまで」、近代的な政治的動向(日本における普通選挙、婦人参政権要求までを含めて)を背後で操っているという奇想を喧伝した。
酒井の説明によると、ともに世界に冠絶する大王国の臣民でありながら、ユダヤ人は日本人と違って、その歴史的使命をまだ自覚せず、世界性略の陰謀にかまけている。だから、日本人はユダヤ人の陰謀が日本に侵入するのを排しつつ、かつユダヤ人を善導してやらねばならないのである(ずいぶんめんどうな仕事である)。(81p)
酒井の日猶同祖論は、その先行者に見られたユダヤ人に対する親和的・共感的な要素をほとんど含まない純然たる反ユダヤ主義である。彼の目的は、神国日本の霊的優位を論証することだけである。そして、「神国日本の霊的優位」という無根拠な妄想と「帝国主義列強による植民地化の恐怖」という否定しがたい現実を「架橋する」ために、キリスト教世界における「霊的長子権」保持者でありながら、現実の政治過程では被迫害者であるユダヤ人のポジションは論理的な「レバレッジ(梃子)」だったのである。酒井にとってユダヤ人は論理の経済が要請するただの道具に過ぎなかった。(83p)
同盟国〔ナチスドイツ〕からの度重なる要請にもかかわらず、日本政府が暴力的な反ユダヤ主義政策に踏み切らなかった理由として考えられるのは、「ユダヤの国際的ネットワーク」から経済的な支援を引き出せるのではないかという期待が軍内部に伏流していたということである。
〔略〕「世界を実質支配しているのはユダヤ人である」という反ユダヤ主義的な前提を反転させれば、ユダヤ人がそれほどまでに強大な権力を持っているのなら、迫害するよりむしろひそかに利用した方が国益に適うのではないかという「妄想に基づく実利的計算」というものもありうる。
軍部にこのような「容ユダヤ」的政治思想が存在しえた理由を推察するのはそれほどむずかしいことではない。ジェイコブ・シフの公債引き受けによって日露戦争にかろうじて勝利できたという(一般国民はほとんど知らされず、政府要路の人間だけが知っていた)事実についての記憶は当然にどの政治セクターよりも軍部において鮮明だったはずだからである。(90p)
昭和に入ってから、日本の国際政治上の「敵ナンバーワン」はアメリカになるが、『議定書』はあらゆる国の政策に適用可能であるから、今度は連合国諸政府を実質支配しているのはユダヤ人であるという物語が採用される。それゆえ、スターリン、蒋介石、ルーズヴェルト、チャーチルはすべて「国際ユダヤ人のピエロ」であるという説が戦中の大新聞では声高に唱えられた。
これらの一連の現象に通底しているのは、夾雑物なき純良な国民国家のうちに国民が統合されていることが「国家の自然」であるという日本人の願望(あるいは妄想)である。そのような単一体として国民国家を想定する人々は、国民国家が複数の流動的要素がたまたま一時的に形成している過渡的な「淀み」のようなものであり、いずれ時が来れば、生成した時と同じように解離してゆくものだという、通時的な流れの中で政治過程を理解することを嫌う。国民国家というものはソリッドで「万世一系」の単体でなければならないという前提の妄想が、入力と出力がペニー硬貨とガムのように対応する「閉鎖系」を要請するのである。
ここまででわかったことの一つは、〔略〕日本における反ユダヤ主義は情報の欠如によって発生したものではなく、むしろ欲望の過剰が呼び求めたものだということである。
〔略〕明治期の「日猶同祖論」を通じて日本人が手に入れようとしたのは、「歴史的=霊的長子権」ゆえの受難という「物語」であった、〔略〕大正期の近代反ユダヤ主義を通じて日本人は陰謀史観という「閉鎖系の政治学」を手に入れた。
これらは同一の病的妄想の二つの病像である。この妄想を病むことによって、日本人はある種の「疾病利得」を得てきた(むろん、それ以上のものを失ったが)。このようにしてもたらされる利益が他の病態によっては代替しえないものだとしたら、きっと日本人はこれからも同じ病を病み続けることになるのだろう。(93-94p)
以上が前半部分の要約である。後半部分については後日。http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061128#1164660641
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2 「日猶同祖論」の系譜に連なる妄想の共同体「キリストの幕屋」
ところで、『私家版・ユダヤ文化論』に言及している「はてな」ダイヤリーを覗いてみたらhttp://d.hatena.ne.jp/asin/4166605194/kamayannokyog-22 「キリストの幕屋」の手島郁郎と比較して手島に軍配を上げているすげえブログを見かけたりした。こういうのがアレになるんだろうか。「キリストの幕屋」は「日猶同祖論」の系譜に連なる妄想の共同体だ。
「キリストの幕屋」と手島郁郎に過去我がブログで言及した記事を以下リンクしておく。
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050310#1110482850■[キリストの幕屋]宗勧ガイドブック「水戸キリストの幕屋」(笑)
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050223#1109190662■[キリストの幕屋][日本会議]「〈キリストの幕屋〉と〈日本会議〉」『進歩と改革』
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050127#1106857360■[キリストの幕屋]「キリストの幕屋」と「日本会議」についての中間整理
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050124#1106598398■[キリストの幕屋][つくる会][宗教右翼]キリストの幕屋
その他、我がブログで「キリストの幕屋」について言及した記事
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060302#1141238499■[つくる会][キリストの幕屋][宗教右翼]「つくる会」と「キリストの幕屋」
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050902#1125592143■[つくる会][宗教右翼][キリストの幕屋]「つくる会」と「キリストの幕屋」
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050304#1109895042■[日本会議][呪的闘争][キリストの幕屋]「救う会」「つくる会」と「キリストの幕屋」の確認
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050207#1107749609■[キリストの幕屋][日本会議][宗教右翼]日本における「宗教右翼」の台頭と「つくる会」「日本会議」
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050124#1106852545■[キリストの幕屋][つくる会][宗教右翼][読書]「つくる会」「救う会」と、「キリストの幕屋」に関する証言