失言による亡国/「マヌケの連鎖としての、日中戦争」/無能の権力者は国を滅ぼす
日中戦争は戦後日本の建国神話に属する。別な言い方をすると日本の欠点はこのときにしつっこく露呈する。日中戦争史を検証することは現代日本を別角度から見る上で有益である。よって以下を http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1052070202/ から再掲する。
1;序
マヌケの連鎖で起きた「蘆溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件」を発端として、日中戦争が始まった。 「蘆溝橋(マルコ・ポーロ橋)事件」は1937年7月7日深夜に起き、戦闘は7月8日に起きた。 何回も事態収拾のチャンスはあったにも関わらず、主に日本側のマヌケの連鎖で、事態は拡大しつづけた。
3;軍隊の「水脹れ」
日本陸軍は、日中戦争期に、物凄い勢いで「水脹れ」した。1937年7月時点では、日本陸軍は、約25万人だった。これが現役兵の総数だ。1937年12月には、日本陸軍は、90万人に増員された。そのうち50万人は中国大陸へ 派遣された。
急速な増員はムリを伴なっていた。2年間の兵役を終えた人は「予備役」登録をされていた。彼らが召集された。当時、20歳になると全員が徴兵されるわけではなかった。約半数は体格の不足、体質の虚弱などを理由に徴兵されなかった。急速な増員は、この虚弱な人々を 「補充兵」として徴兵し、即席で訓練することで賄った。
中国大陸での戦争には、どれだけ兵士がいても足りなかった。占領地が増えれば占領地に兵士を駐屯させる必要があるからだ。
1945年には、日本陸軍は、600万人に増員していた。1945年当時動ける人は皆、兵士として戦場へ送られた。兵士には本来厳格な訓練が必要だ。体力的に劣り、訓練が充分ではない人をムリヤリ兵士として仕立てても、軍隊としてマトモには機能しない。
日清日露では異様にモラルの高かった日本軍は、急速な「水脹れ」により、軍紀が物凄い勢いで劣化し、匪賊化した。「南京事件」で示した日本軍のモラルの低さは、急速な増員が 一つの原因だった。
4;「刺突」
日中戦争では、「補充兵」を「訓練」すると称して、捕虜を「刺突」させた。 銃剣刺突訓練は、ふつう、藁人形などを相手に行う。 兵士としての適性の乏しい「補充兵」に、「度胸をつけさせる」ため、生きた捕虜や民間人を 的として、「補充兵」に「刺突」させた。もちろんこれは国際条約違反だ。
日本軍上層部は、当時「いかに英米の枠組を出し抜くか」に意識が集中し、国際条約を軽蔑する「風潮」が形成されていた。その決定的原因を作った一人は「満州事変」を起こし 「英雄」となった石原莞爾だ。
また、急速な「水脹れ」は、国際条約への無知も形成した。国際条約の遵守義務があるという意識を当時の日本軍は欠いていた。客観的には、匪賊同然の軽蔑されるべき軍隊に成り下がっていた。滑稽なことに、主観的には日本軍は最高のモラルである天皇に直属し、世界で最も高いモラルを持っている、という神話を唱え続けた。何が違法であるかすら教えられていなかった。
日本軍が捕虜を「刺突」した写真は、当時毎日新聞の従軍記者が撮影し、おそらく戦意昂揚を目的としてのことだろう、新聞紙面に載せることを考えた。検閲で却下された。
毎日新聞社にはその写真が、「不許可」のスタンプ入りで、残されている。毎日新聞社だけは、戦中の「不許可写真」を今でも持っている。毎日新聞のこれら「不許可写真」は、戦中を知るための貴重で重要な史料だ。他の新聞社は、1945年終戦のとき、内務省命令で全て焼却した。
特高警察や神祇院、神宮司庁などで形成されていた内務省は、戦後、警察庁、自治省、建設省、などに解体された。現在は警察庁、総務省、国土交通省がその流れを受け継いでいる。
5;検閲
「検閲」では、戦争での、「残虐」「残酷」な映像は、不許可とされた。死体などの「残酷」な映像は、「検閲」された。当時の従軍記者は、「残酷」な映像は「使えない」から、撮影しなかった。日本本土の新聞に載る戦争写真だけで見ると、日本兵士は無人の荒野を勇壮に行進していた。その写真からは、死体の類は「修正」され、消去されていた。当時、新聞では写真の「修正」は頻繁になされていた。死体のような「残虐」なものを写真上から 消去する「名人」職人もいた。軍事機密である兵器なども「修正」され、新聞紙上の写真からは姿を消していた。だがニュース映画では軍事機密の兵器が映っていた。消去する技術がなかったからだ。
「南京事件」を写した、とされる写真は、出所の不明なものが多い。ので、「南京事件」では 写真資料は取扱い注意だ。「南京事件」を知るには、従軍日記が史料として重要だ。
6;近衛文麿
南京陥落の際、近衛文麿首相は大失言をした。「爾後南京政府を対手にせず」声明を出してしまった。 1938年のことだ。
戦争は終結のとき、必ず話し合いを必要とする。この大失言で、日本は戦争終結の手段を失った。 近衛文麿は自分で自分の手を縛ってしまった。日中戦争はマヌケの連続だったが、近衛のこの 大失言声明は、その中でも極めつけだ。
大失言「爾後南京政府を対手にせず」声明を出したとき、首都を陥落したことだし、これで 蒋介石政権は自然に潰れるはずだ、と、甘い見通しを近衛文麿は持っていたようだ。
蒋介石政権は中国奥地に転進し、潰れず、粘り強く反抗した。
自分で戦争終結の方法を棄ててしまうという大ポカをやらかした近衛文麿首相は、それでも戦争終結のために、蒋介石政権と話し合いをする必要があった。「爾後南京政府を対手にせず」と声明を、自分の面子を潰さないまま事実上取り消すために、近衛文麿首相は、「東亜新秩序」というスローガンを発明した。「南京政府は対手にしないが、『東亜新秩序』という日本の理想に南京政府が賛同するのなら、 交渉のテーブルについてやってもいい」というポーズを作るための、日中戦争を終結させるための、その場凌ぎの名目・スローガンだった。失言を取り消すための「東亜新秩序」というスローガンは、英米を刺激し、英米からの反発を招いた。当然だ。「東亜新秩序」とは、中国を日本の支配下に置く、という意味だからだ。 中国に権益を持つ英米が黙っているわけがなかった。
失言を取り繕おうとして、更なる大失言を近衛文麿は行った。マヌケの連鎖だ。
7;汪兆銘
日本は、蒋介石政権のNo.2である汪兆銘の引き抜きを考えた。蒋介石政権を、蒋介石と汪兆銘に分断し、汪兆銘政権を交渉相手にしよう、と、日本は考えた。汪兆銘の引き抜きには成功したが、蒋介石政権から誰も汪兆銘についていく者はいなかった。これは日本側が提示した条件が悪かったからだ。
はじめ、日本は汪兆銘に「二年以内に日本軍は中国から撤兵する」ことを条件にしていた。これは中国から見て悪い条件ではない。だから汪兆銘は乗った。
だが日本の側は汪兆銘に相談なく、条件を書き変えた。「二年以内の撤兵」を、「近い将来の撤兵」と書き変えた。期限を削った。日本側が欲を出し、条件を中国に悪くした。
そのため、汪兆銘についていく者がいなくなった。汪兆銘個人以外誰も引き抜くことができず、この工作は失敗した。肝心なところでつまらない欲を出し、ここでもまた日中戦争終結に日本はしくじった。果てしないマヌケの連鎖だ。
8;死者
1937-1941年の間に、日中戦争で、日本軍は20万人の死者を出していた。日露戦争での日本軍の死者の総数は10万人だ。日清戦争での日本軍の死者の総数は1万人だ。日中戦争は、日露戦争の半分の期間で、日露戦争の倍の死者を日本側に作っていた。日中戦争は厳しく激しい戦争だった。
9;従軍慰安婦
「従軍慰安婦」は、「南京事件」によって作られた。日本軍兵士による略奪・強姦が激しすぎて、軍紀が乱れすぎて、これでは軍隊を維持できない、と、考えたからだ。
「戦争と売買春」の問題は、どこの軍隊にもある。日本の場合、行政が深く関与した点が特徴的だ。日本軍の場合、兵士に休暇を与えないことを前提としていた。
第1次大戦を経験していた欧州の軍隊は、「兵士に休暇を与えないと、能率が下がる」ことを理解していた。だから欧米軍は、兵士に定期的に休暇を与えた。
日本軍は兵士を戦場に貼りつかせた。戦場に慰安所を行政が設けた。慰安婦ははじめ日本国内のプロの女性を動員した。全く数が足りなかった。日本国内で慰安婦を集めるわけにいかないので、植民地で慰安婦を集めた。現場で集めたのは業者だ。だが、地区ごとに何人慰安婦を集めろ、と、計画を立てたのは日本の行政だ。
戦闘の前線では略奪・放火・強姦を日本軍は繰返した。占領地に慰安所は設けられた。慰安所は日本軍による略奪・放火・強姦をなくすためには役に立たなかった。
10;「社会的兵営化」
日本の軍隊は、出身地ごとにまとめられた。故郷の人間関係がしばしばそのまま軍隊に持ち込まれた。故郷の人間同士で略奪や強姦をしたとき、一人だけそれに参加しないでいると、故郷に帰ってから、逆に、略奪し強姦した人々からネチネチと延々非難された。
日本社会全体が軍隊化した状態を、「社会的兵営化」という。戦場のストレスは、銃後にも持ち込まれた。
兵役は本来2年だけのはずだった。期限があるのなら人間は苦しみにも耐えられる。 「予備役召集」により、いつまで従軍しなくてはならないのか判らなくなる。兵士は消耗し、兵士の精神は荒廃した。