カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

畑仕事とか、休日のはずだった日とか

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水曜は休日だった。休日になった。老母が火曜の夜、誰にも申告せず決めた。

2

休日になった水曜の朝に、老母が、体調不良でやばい感じの老父に畑仕事を要請した。我が老母は家族に労働を要求することに全く躊躇がない。労働を要求しているという自覚すらない。老父には長生きしてほしいと思う私は、老父の畑仕事を手伝った。
別に畑仕事は仕事ではなく、畑が遊んでいる状態なのは悔しいとか、すでに土起こしをして鋤いていてもったいないとか、そういう、主に老母の欲により、畑仕事をする。
堆肥と化学肥料と石灰を運び、撒く。堆肥撒きは初めてするが、最少の作業で最大の効率で撒き、ああ、俺って何にでもセンスがあるな、とか自惚れる。
撒いた後、鋤く機械を親戚から借りて、堆肥を土に混ぜるため畑を鋤き直す。鋤いた土から石を拾う。この、畑の石拾いは、小学校入学以前、今は亡き祖父と一緒にして以来の作業だ。幼き頃は、土塊(つちくれ)と小石の区別がつかず途方に暮れたものだったが、大人の目で見るとちゃんと区別がつくから不思議だ。
ところでよく詩などに「土塊(つちくれ)」という言葉は出てくるが、「土塊」という言葉は、畑で、石かと思って摘み、手の中で崩れ落ちるその虚しさ頼りなさが含意されていて、一方「石」は、畑では邪魔で敵なのだが、確かにしっかりとそこに存在するという力強さを含意する。こういうニュアンスは都市生活では判らんよなあ、農業生活に密接した言葉だよなあ、とか、国語講師時代の脳になって思う。
従順な土塊であるよりは、邪魔っけで存在の確かな石への羨望、というものを感じる。
午前中いっぱい畑仕事をする。畑仕事はそれなりに重労働であり、それが響いて、老父は体調不良になる。我が老母は、自分自身が頑丈であるから、他の人が疲労するという感覚や同情心を基本的に持っていない。老父は午後、身体のメンテナンスのために鍼灸師の元へ行く。

3

休日になった水曜の午後、老母は外出を繰り返す。何をしに外出を繰り返したかというと、畑仕事の延長で芋を植えるためだ。それで私は店番と電話番をせざるを得なくなる。来客がそれなりにある。老母へ連絡しないと来客の用件が処理できないのだが、老母は携帯電話も持たず出ていて、たいへんに困る。私は少しも気持ちが休まらない。もし休日がとれたのならすべき作業予定は私にも色々あるんだが。「進歩と改革」の原稿とか。しかし原稿を描くにしてもまだ机を自分の部屋へ設置できていないので、自分のための作業はほとんど何もできない。
夕刻、ようやっと老母が帰還。
私は書庫の床へ砥粉を塗りに行く。

4

就寝直前、老母が、嵌っている新興宗教関係のチラシの印刷を私に要望する。このチラシの作成は前日に老母が私に要請したものだ。老母は人に労働を要請することに全く躊躇がない。
前日作成したチラシのデータを保存していなかったので、また再度作り直す。
ところで、以前、バカ親というのは塾を自動販売機の一種だと錯覚しているhttp://d.hatena.ne.jp/kamayan/20080619#1213816870、ということを書いた。バカ親というのは基本的に他の人を人格ある人間とは認識せず自動販売機の一種だと錯覚している。我が老母も堂々たるソレであるので、私も自動販売機の一種だと思われているらしく、就寝前作業としてはけっこう重過ぎる、けっこう手間のかかる作業だということを老母は理解しない。作業途中でああじゃのこうじゃの余計なことを横から口出しされ、たいへんストレスが溜まる。母ちゃん、自分以外の人間を自動販売機だと思うのはやめてくれ。それと父ちゃんと俺をこき使うのをもっと遠慮してくれ。
結局、水曜は少しも休日にならなかった。

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