カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

定型は暴走する

以下メモする。内田樹『街場のメディア論』光文社新書から。

第四講「正義」の暴走
〔略〕自分には適用できないルールを他人には平気で適用する。
そういうものを「定型」と言います。
自分の生身に突き合わせてみれば、強い違和感を持つようなことであっても、「鋳型」から「人形焼き」のように次々とたたき出されてくると、「そういうものか」と思ってしまう。自分は正直に言うとそんなふうには思わないけれど、「そんなふうに思うのがふつうなのかな」と思ってしまう。それが「定型」の力です。
以前、ある週刊誌の女性編集者が〔内田樹のところへ〕取材に来たことがありました。その週刊誌はいわゆる「おじさん」系の雑誌です。「世の中、要するに色と慾」というシンプルでチープな図式で世の中の出来事を撫で斬りにする。二〇代のその女性も「そういう記事」を書いていると聞いて驚きました。
「書くの、たいへんでしょう」と訊いたら、不思議そうに「別に」と答えました。どうしてか、重ねて訊くと、この週刊誌では記事の書き方に「定型」があるので、それさえ覚えれば、若い女性もすぐに「おじさんみたいに」書けるようになるからだと教えてくれました。それを聞いて「はあ」としばらく脱力してから、それはちょっとまずいんじゃないかと思いました。
というのは、だとすると、その週刊誌の記事を実際に書いているのは、生身の人間ではなく、「定型的文体」だということになるからです。そこに書かれたことについて、「これは私が書きたいと思って書いたことであり、それが引き起こした責任を私は個人で引き受ける」と言う人間がどこにもいないということだからです。〔88-89p〕
〔略〕「最終的にその責任を引き受ける個人を持たない」ような言葉はそもそも発せられる必要があるのか。
僕は率直に言って、「ない」と思います。言葉の重みや深みというのは、それを書いた個人が、その生き方そのものを通じて「債務保証」するものです。〔89-90p〕
すべての言葉は、それを語った人間の、骨肉を備えた個人の、その生きてきた時間の厚みによって説得力を持ったり、持たなかったりする。正しかったり、正しくなかったりする。
〔略〕少しでも価値判断を含むもの〔言葉〕は、政治記事にしても、経済記事にしても、そのコンテンツの重みや深みは、固有名を持った個人が担保する他ないと僕〔内田樹〕は思うのです。
けれども、僕たちが今読まされている、聴かされている文章のほとんどは、血の通った個人ではなく、定型が語っている。定型が書いている。〔91p〕
〔略〕「どうしてもこれだけは言っておきたい」という言葉は決して「暴走」したりはしません。〔94p〕
〔略〕ほんとうに「どうしても言っておきたいことがある」という人は、言葉を選ぶ。情理を尽くして賛同者を集めない限り、それを理解し、共感し、同意してくれる人はまだいないからです。〔略〕「真に個人的な言葉」というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられる機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです。そのような言葉だけが語るに値する。菊に値する言葉だと僕は思います。
逆から言えば、〔略〕「暴走する言説」というのは、〔略〕「誰でも言いそうな言葉」のことです。
ネット上に氾濫する口汚い罵倒の言葉はその典型です。〔94-95p〕
〔ネット上の「名無し」という名乗りが「私は個体識別できない人間であり」「存在する必要のない人間である」という「呪い」となるように〕同じことがメディアの言葉についても言えると僕は思っています。〔略〕メディアが急速に力を失っている理由は〔略〕固有名と、血の通った身体を持った個人の「どうしても言いたいこと」ではなく、「誰でも言いそうなこと」だけを〔新聞テレビといったメディアが〕選択的に語っているうちに、そのようなものなら存在しなくなっても誰も困らないという平明な事実に人々が気づいてしまった。そういうことではないかと思うのです。〔96p〕

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

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