カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

火薬帝国

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NHKの『ヒューマン』http://www.nhk.or.jp/special/onair/human.html の第2集が投擲武器の話だった。面白かったので、おそらく元ネタであるだろう『飛び道具の人類史』読了。
クロスビーによる、ヒトの3つの特性。
1;二足歩行
2;投擲力 ヒトは他のいかなる動物種よりも、遠くまでより正確に物を投げることができる。
3;火を操る能力
このうち、「投擲力」に注目して人類史を書いたのが本書。
最初の武器としての投石、地上最強の肉食獣に飛躍したのが「アトゥラトゥル(投槍器)wikipedia:アトラトル」の発明。
投擲を主要武器としたことにより、手を離れたものがどうなるのか予想する力を必要とすることから、未来予測の能力が人間に生まれる。
アトゥラトゥルから弓・クロスボウ(弩弓)・カタパルトwikipedia:カタパルト(投石機)・火薬・銃砲・ロケットへ、と、武器が進化していく。

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本書第7章「『火薬帝国』の誕生」が特に面白かったので、以下要約を記す。
中国 
17世紀清朝皇帝が武器の近代化をもくろむ。フラマン人神父フェルディナンド・フェルビースト(南懐仁、1623〜88)に命じ、300門の古い大砲を修復して改良し、小型の大砲を132門鋳造した。フェルビーストは中国語で著した大砲の説明書も検定したが、中国人はこれを紛失した。この事業を終えると中国人は旧態依然たる生活に戻る。
2世紀後アヘン戦争が勃発したとき、中国人はフェルビーストが設計した大砲を用いていた。
日本
1543年ポルトガルの冒険家が種子島に漂着した。数年後、世界で最も優れた金属細工師と目される日本の刀鍛冶は、火縄銃と小口径の火砲をつくっていた。日本の火縄銃はヨーロッパのそれに比べ、口径が大きく、引き金装置の信頼性が高かった。1549年、天下統一をもくろむ織田信長(1534〜82)は500挺の火縄銃をつくらせた。長篠の戦い(1575年)には鉄砲隊を三列横隊で用いた。信長は1582年に暗殺された。
最高権力者に登りつめたのは、農民あがりの策士で天才的な戦術家の豊臣秀吉(1537〜98)だった。秀吉の成功の原動力は鉄砲隊の活用だった。秀吉は天下統一後鎖国への道を拓き、彼の後継者たちはそれを踏襲した。秀吉と彼の後継者たちは国内の銃を鋳潰し、巨大な仏像を鋳造した。日本の鎖国は2世紀以上続いた。
1850年代にマシュー・ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航するにおよんで、終止符が打たれた。黒船に搭載されていた艦砲は、日本の大砲をミサイルとして発射できるほど巨大だった。
オスマントルコ
14世紀後半には火砲を使用していた。バルカン半島ではイタリアの都市国家から火砲を購入したり、イタリア人やハンガリー人の砲匠を雇った。1389年コソヴォの戦いで火砲の威力でキリスト教国連合軍に大勝した。
オスマントルコの中心部にあったビザンツ帝国首都を1453年に攻略した。ハンガリーの大砲鋳物師ウルバンはビザンツ皇帝の提示する報酬には満足せず、オスマントルコ皇帝メフメト2世(1432〜81)のもとで働いた。全長7mの世界最大の大砲を完成させた。オスマントルコの火薬技術はイスラム圏全域に広まった。
ムガル帝国(インド)
初代皇帝バーブル(1483〜1530)の軍隊は1526年パー二―パットの戦いで勝利した。火縄銃と2門の大砲、オスマントルコの戦術の専門家二人を顧問として擁していた。
2代皇帝アクバル(1542〜1605)は熱烈な火薬信奉者だった。1568年、ムガル軍は3門の大砲と現地で鋳造した巨大な大砲を用いて、チトールの要塞を奪取した。翌年、ランタムボルの要塞を包囲し、数百頭の牛と象にひかせて運んだ15門の攻城砲で砲撃した。要塞は1ヶ月で陥落した。
ロシア
モスクワ大公イワン3世(1440〜1505)が輸入した銃砲を用いモンゴルの軛を脱し、全ロシアの統治者と名乗りを上げた。
イワン4世(雷帝)はイワン3世の帝国主義的野望と火器に対する嗜好を受け継いでいた。イワン4世はモンゴル帝国の流れを汲む汗国を攻略した。これらの国では火器はまだ普及してなかった。火縄銃部隊を率いていける戦場や大砲を運べる戦場ではイワン4世の軍隊は華々しい戦果を挙げた。1552年、イワン4世は150門の火砲でカザンの城壁を破った。イワン4世が没したとき彼の帝国はヴォルガ河の全領域とカスピ海に広がっていた。
イワン4世の存命中に、コサックの頭目イェルマール・ティモフェーエヴィチ(1584没)は火器で武装した部隊を率いて、ウラル山脈を越えシベリアへ遠征した。これ以後ツァーリの帝国は東方拡張策を進め、太平洋に到達した。
ハワイ
1779年、キャプテン・クック隊が前年に引き続き再びハワイ諸島に寄港した。クックはマスケット銃を発砲し、直後に島民に殺された。この時初めてハワイ先住民の手に銃が渡った。
1790年、アメリカ商船エレノア号が無差別に発砲し100人余りの島民の命を奪った。数日後島民は僚船のフェア・アメリカン号を襲撃し、大砲1門とマスケット銃多数と弾薬を入手した。この分捕り品はカメハメハ1世(1758〜1819)が所有した。カメハメハは火器と火薬の調達に勤しみ、火器使用法管理法に習熟した白人の顧問を獲得した。1804年には、カメハメハは600挺のマスケット銃、14門の大砲、40門の旋回砲、6門の小型迫撃砲を所有した。
18世紀末から19世紀初頭にかけ、カメハメハはハワイ8島統一という先人がなし得なかった事業を推し進めた。その過程で数百数千のハワイ人が命を落とした。カメハメハは古典的火薬帝国の最後の皇帝だった。
ヨーロッパ
フランスは百年戦争で大砲の機動性が砲弾の初速に劣らず重要であることを認識し、性能のよい砲車を開発した。1490年代にフランスはイタリアに侵攻しナポリまで進軍した。この時点では西ヨーロッパ帝国の皇帝の座に就くのはフランス人だろうと思われた。
ライバルたちもまもなく改良された大砲や砲車を手に入れ、築城術にもルネサンスが訪れた。イタリア人は城壁の前面に土を積み上げ厚い傾斜面をつくった。この盛り土に砲弾はめりこみ、城壁は破壊されずに持ちこたえた。
イタリア式築城術の設計家たちは大砲鋳物師と同様に国際ビジネスの担い手となった。火器の効果はイタリアでは競合し合う諸国の併存状態を助長した。
ヨーロッパ諸国は火薬の製造と使用にかけては群を抜いて精力的かつ独創的だった。隣接する地域を併合して帝国を築く企てに挫折すると、母国とは遠く離れた海外に帝国を築くことに方針を転換した。
太平洋岸の西ヨーロッパ諸国は15世紀末にはシップ型帆船を有していた。これは外洋の航海に適していた。はじめのうち大砲は上甲板に置かれたが、16世紀には下甲板の幅を広くして大型大砲を下甲板に装備し、舷側に砲門を設けるようになった。
ヨーロッパ人が海の彼方から現れたとき、アジア沿岸地域はすでに火器の長い歴史があった。侵略者が改良した兵器を持って19世紀に再び現れるまで白い帝国主義が絶頂に達するのを遅らせた。
新世界
ヨーロッパの帝国主義が完璧な勝利を収めたのは新世界とシベリアだった。
エルナン・コルテスアステカ帝国の皇帝の使者に対し、大砲を一発撃ってみせた。使者たちはまるで死んだように床に倒れた。
初めて火器に接したアメリカ先住民は深い感銘を受けるとともにこの目新しい武器を使い始めた。だが新世界の先住民は旧世界の人々ほど有効に火器を活用できなかった。旧世界では火器の製造記述も習得できる程度に技術が進んでいるのが普通だったが、アメリカ先住民は火薬や鋼について何も知らず、辺境部族は弓矢すら知らなかった。彼らは銃砲を手に入れたが、それをつくる銃工や砲職人は手に入れられなかった。彼らは火器の修理には熟達し、みずから弾丸をつくるようになったが、火器や火薬を自らつくるには至らなかった。彼らはしだいに敵である侵略者に依存するようになってしまった。
1800年にはヨーロッパ人は地球の陸地の35%を占有または支配していた。
〔156〜180p〕

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