カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

『タテ社会の人間関係』― 「田舎っペ」

 〔略〕前述した枠による集団の構成のあり方からは、およそ社交性というものを育てる場がない〔略〕。
 すなわち、社交性とは、いろいろ異なる個々人に接した場合、如才なく振舞いうることであるが、一体感を目標としている集団内部にあっては、個人は同じ鋳型にはめられているようなもので、〔略〕個人は、集団の目的・意図に、よりかなっていれば社会的安定性が得られるのであり、仲間は知りつくしているのであり、社交などというものの機能的存在価値はあまりないのである。〔略〕
 このようにして生産され、教育(社会的な意味で)される人間関係の特色は、地域性(ローカリズム)が強く、直接接触的(タンジアル)であるということである。
 地域性(ローカリズム)が強いということは、その集団ごとに特殊性が強いということと、一定の集団構成員の生活圏がせまく、その集団内に限定される傾向が強いということである(「地域性」という日本語より、〔略〕感覚としては「田舎っペ」という表現がよく当たる。すなわち、自分たちの世界以外のことをあまり知らない、あるいは、他の世界の存在をあまり知らず、それになれていないということである)。
 〔略〕派閥集団を形成している政治家は、自分たちだけで他の派閥内のことがよくわからず、政治記者が他の派閥の情報提供者であったりする。学者や知識人は〔略〕第三者や他のグループとは同じ分野の専門でありながら、さっぱり意思が疎通せず、ディスカッションが不可能だったりする。[略〕(52-53p)
 [略]集団構成員の異質性からくる不安定さを克服するために、集団意識をつねに高揚しなければならない。そしてそれは多分に情的に訴えられるものであるから、人と人との直接接触を必要とし、また、その炎をたやさないためには、その接触を維持しなければならない。(54p)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

 丸山真男の言う「タコツボ型社会」*1と同じものを差してますね。これが書かれた頃よりは現在は社会流動性が高くなっているし、2chみたいな24時間井戸端会議所があるから、少しはマシになっているけれど。webで「厨房」と呼ばれる人は、この「田舎っペ」ではありますね。「田舎っペ」で社交性が欠落しているから、言説がムダに過激になる(「ネット右翼」と呼ばれたりする)。「田舎っペ」だからものを知らず、騙されやすい。

*1:

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

ネットと「ムラ社会」

『タテ社会の人間関係』の「田舎っぺ」から連想したので、以下、2002年12月31日頃書いたものを転載する。

ムラ社会」の作法と「都市(非ムラ社会)」の作法

 インターネットは、「自由」で「平等」だ。原則的に誰でも発言できる。この作法は、都市的(非ムラ社会的)だ*1ムラ社会は、ムラの住民全員が顔見知りだ。そこでは顔見知りだからこそ、の、ルールが支配する。都市では、住民全員が「顔見知り」なわけがない。よって「顔見知り」ルールを前提としない(見たこともない「同胞」への愛情・一体感をナショナリズムと呼ぶ。「ナショナリズムについて」http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1038415480/2-15 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1025577785/60-69)ムラ社会の作法を、不特定多数が利用することを前提とするweb掲示板へ持ち込もうとすると、「厨房」と呼ばれる。
 ムラ社会では、しばしば互いの情緒に神経を尖らせることが求められる。かつて農村では、田植えも稲刈りも家を建てるのも葬式も、村総出でなされていた。村総出でなければこれらのことができず、生活できなかった。その結果、常に相手の感情を忖度することが、ムラ社会でのマナーとなる。
 「都市」では、村総出で何かをする、という必要はない。労働は、個人個人が企業へ行き行ない、そこから貨幣で報酬を受け取る。そこに村は関与していない。家を建てるのは不動産屋と建築業者へ貨幣を支払えるかどうかだけだ。村住民に基礎工事をしてもらう必要はない。そのため、ムラ社会とは求められる作法がごく当然異なる。
 都市では、相手の感情を忖度してもあまり意味がないばかりか、余計な誤解を生じるだけにしかならない。むしろ都市では自分の前提と他者の前提がごく当然のこととして異なる、ということへの配慮がマナーとなる。たとえば園芸板住民と、シャア専用板住民では、前提としている情報が違う。政治思想板のノリでほのぼの板ヘ書き込みしたら、それは「厨房」だ。「自分の中学校で流行っていることは、2chでも当然通じるはずだ」と考えたら、「厨房」だ。
 脳内にあるムラ社会作法で都市的問題を処理しようとすると、個人レベルでは、パンクする。
 また、政治レベルでは、都市的問題をムラ社会作法で処理・解消しようという言説は、結局のところ、ごく一部の既得権益集団というムラ社会を温存させることに加担することになる。

「自己決定権・拒否権」での「ムラ社会」作法と「非ムラ社会」作法

 ムラ社会は、自己決定権・拒否権を、否定する。自己決定権・拒否権の発動は、トラブルの元だからだ。日本のムラ社会では、大勢に従う、というかたちで自己保身を担保するよう求められる。「大勢に従う」ことをムラ社会では「民主主義」としばしば誤って呼称するが、自己決定権・拒否権が許されない「民主主義」など、ありえない*2
 「民主主義」を否定する言説は、しばしば、ただ単に「ムラ社会」作法を誤って「民主主義」と呼称し糾弾しているだけのことがある。自己決定権・拒否権への尊重が、正常な「民主主義」の基盤である*3。自己決定権・拒否権は、「自由権」の根幹だ。
 「自己決定権・拒否権」発動を許容しないムラ社会は、日本では、本心と異なることを「人間関係を円滑にするために」発言することを要求する。ウソをつけ、と、ムラ社会は要求する。ウソをつくことへのペナルティはムラ社会には存在しないが、本心を語ることへのペナルティはムラ社会に存在する。「自己決定権・拒否権」を許容しないムラ社会は、必然的に、「思想信条の自由・言論の自由」を許容しない*4
 自己決定権・拒否権を許容しない社会では、「ホンネとタテマエ」を使い分けることが、作法となる。「タテマエ」は常に従順であることを要求し、「ホンネ」は常に不従順であることを要求する。
 しばしば、「自由」という語をこの「ホンネ」のことを差すと勘違いしている人がいるが、全く別物だ。自己決定権・拒否権が「自由」権であり、「ホンネとタテマエの使い分け」を作法とすることは、「信条の自由・言論の自由」と理念的に対立する。

「性」を巡る「ムラ社会」視点と「非ムラ社会」視点

 「性」は、「ムラ社会」視点では、「ホンネ」領域に配置され、表(「タテマエ」)では語ってはならないことというマナーが要求される。これにより、「ホンネ・タテマエ」図式は強化され、「自己決定権・拒否権」も否定される。
 だが、性疾患・妊娠などはごく当然のこととして、生命安全に関わることであり、近代社会では公的問題の1つだ。*5

「教育」を巡る「ムラ社会」視点と「非ムラ社会」視点

 「教育」は、「非ムラ社会」の代表的な領域だ。一応、理念上は。ある種の人々が「性教育」という言葉を聞いた瞬間、激しい反応を見せるのは、その人々の脳内にあるムラ社会ユートピアに亀裂が生じるからだ。脳内ムラ社会ユートピアは隅々までタテマエが浸透した社会であるべきであり、そこに「性」というホンネ領域が配置されることが耐えがたいのだ。また、同時に、脳内ユートピアはホンネ幻想でもあるから、鏡面として、隅々までホンネが充たされた像も反射的に脳内に登場する。一瞬たりとも安定したところのないカオスの像をその人々は同時に見る。それは当人の無意識下の欲望にすぎないが、他者にそれを投影し、憎悪する。
 また、「自己決定権・拒否権」の養成は、「教育」(学習)の本質だが、「自己決定権・拒否権」を許容しない「ムラ社会マナー」の枠組で思考すると、「性教育」という言葉自体が、「(要求された側が)望もうと望むまいと関係なく、(機械のように)セックスして奉仕せよ。要求された側はそれを受け入れよ」というニュアンスに聞こえるらしい。
 「性教育」とは、他者からのセックスの要求をどう拒絶するか、を、含むが、その視点が、「ムラ社会」視点では(必然的に)欠落している。
 「ホンネ・タテマエ」図式で解釈すると、「教育」は、「タテマエ」を強要する場所だ。残念なことにそれは実体のかなりの部分と合致しているがそのような実体が望ましいわけではない。
 「ホンネ・タテマエ」図式を解除して、本来の「教育」を考える場合、当人及びその周辺の人々の生命安全を守ることが情報として最優先されるべきだ。生命安全に関わる情報、性教育は、最も優先されるべき情報の1つだ。理念的には、最も「教育」がフォローするべき分野だと言える。

ムラ社会」作法の弊害

ムラ社会」人間関係に馴らされると、以下のような弊害が発生する。

1;無力感を強要される。

「自己決定権・拒否権」が許容されないからだ。政治的自己決定権・政治的拒否権も必然的に実感を覚えない。そのため、政治という言葉に過度に悪魔的イメージを持ち、「性」という言葉に過度な幻想を抱くようになる。

2;「言論の自由」競争自体を軽蔑する。

ムラ社会」マナーでは「いいこと」は「対立しないこと」なので、異なる意見により対立してしまうこと自体を罪悪だと考える。異なる意見が互いに「正当性」を「競争」するのが「言論の自由」競争であり、人の知性はこれによって増大しより高度な次元へ上る。が、ムラ社会視点では「対立」「論争」はそれ自体罪悪で非道徳的だと感じるので 「敵」は殲滅するべきだ、という発想にのみ囚われ、言説が高度化しない。結果、人の知性の増大に寄与しない。

3;正誤判定・正当性の問題と、情緒の区別がつかない。

ムラ社会」マナーでは、「自分に気遣いしてくれるかどうか」「自分をヨシヨシと肯定してくれるかどうか」だけが全ての基準なので、言説が正しいか正しくないかではなく、「自分に気遣いしてくれるかどうか」「自分をヨシヨシと肯定してくれるかどうか」だけで物事を測ろうとする。
「自分に気遣いしてくれるかどうか」「自分をヨシヨシと肯定してくれるかどうか」は正しいか正しくないかとは全く関係ない。
政治的に誤ったことを継続すれば政治的に敗北するし、事実と異なることを異なっていると自認できなくなれば、精神失調をきたす。

〔補足〕

「メディア」

 コミケや同人誌、インターネット、2ch、学校も、メディアだ。フランス革命は、カフェ(喫茶店)という「メディア」の発達が1つの起爆剤だった。カフェ登場以前は教会の日曜学校という「メディア」が支配的言説(王党派に都合のいい言説)を流していた。
 メディアの発達と、近代化は、相補的だ。印刷技術という「メディア」の発展が、欧州の近代化をスタートさせた。

「民主制」

 「民主制」は、見たこともない他人が見たこともない他人へ説得する、見たこともない他人を支持する、という、「都市」ルールに下支えされる必要がある。これを「ムラ社会」での情実作法、「顔見知りは特別扱い」の作法で行なおうとすると、汚職と不正だらけになる。誰を「社会の構成員と見なすか」、は、重要な争点となる。
情実を前提とした組織は「二重規範」化する
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1039180795/2-22
自由と民主主義
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1033569005/18-82

*1:人口流動がない閉じた小世界、中世的村落共同体を「ムラ社会」と呼び、人口が密集し人口流動する場所を「都市」と呼ぶ。近代化は、社会が都市化していくことを差す。http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1025577785/73-74

*2:自由を許容しない「民主主義」は、全体主義ソ連ナチスドイツ)というかたちで一応歴史上存在した。が、日本では、同時代に神政政治が行なわれ、近代化の過程でなされるべき、政治システムとしての民主制は血肉となっていない。全体主義への拒絶言説は、しばしば、近代政治システムである民主制自体への否定言説として流用される。

*3:山本七平の『空気の研究』という著述は、日本政治での自己決定権・拒否権の問題を欠落・隠蔽させて、「空気」という言葉でもって、権力問題を曖昧化させ知的混乱を読者へ要求している。バカ本なので読まなくていい。

*4:「相互に矛盾する思想を『無限抱擁』して、精神経歴に『平和共存』させる思想的「寛容」の伝統にとって、唯一の異質的なものは、『精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想』だった。」http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1040696215

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

*5:http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1033569005/2-13 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1024022967/46-49

代表議会制のルーツ

代表議会制のルーツ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1025577785/71-72
中世欧州の代表議会政治の発展 2つのルーツ

1;教会法の定め

司教は、司教座のある教会の聖職者たちによって選挙されなくてはならない、と、教会法で定められていた。問題が起きたら教会指導者の集会によって決定せよ、と定められていた。14世紀には、正当な権威は任命ないし選出された代表によって表明された、治められる者たちの同意から生まれる、という説が登場した。これが、世俗政治に応用された。

2;統治者と臣下の伝統的関係

君主は新しい重要な事業に取り掛かるとき、臣下にことを計ることが必要だった。これは、ふたつの機能を果たしていた。A;臣下の間の争いの調停。B;特定の軍事作戦を起こすか否かの審議。のちに、C;「一時献金」の認可が、加わる。騎士たちは後に戦争の召集に出頭するより傭兵を戦場に送るようになった。結果、騎士は王に献金し、王は俸給取りの戦士を集める、というかたちになった。献金が王と臣下の重要な協議事項になった。
都市市民は現金の潤沢な源泉だったので、都市の代表者も宮廷に呼び出されるようになった。都市代表は、貴族とは別の議会に席を持った。
このような偶発的事情により、欧州の重要な王国では、君主が領内の大きな利益を代表する人々と相談する慣例ができた。協議される内容は税と代表者たちの一般的な苦情処理だった。代表者たちは、新しい賦課税の承認をさしひかえれば、君主は苦情を除去せざるを得ないことを学んだ。このような代表制度により、財産家や納税者は自分たちと関係の深い公共問題に関して発言することができるようになった。統治者・土地所有者・商人間に、比較的緊密な協力関係ができあがった。
明朝時代、中国では新しい外航船の建造が禁止されたが、欧州政府ではそれほど大きな船主と船乗りの集団の利益を踏み躙ることは不可能だったろう。
公的な行政者が、臣下の経済的利益に対し考慮を払うことが、時には失敗を重ねながらもだいたいにおいてうまく行なわれ、欧州の政治構造に深く根ざすに至った。それゆえ、欧州政治は、欧州の交易・商業と同様に、他に例を見ないほど民衆的であり、新しい形態の経済的事業、特に租税収入が増える見込みのある改革などに対しては、異常なほどの適応力を持っていた。
出典;ウイリアム・H・マクニール『世界史』(中央公論新社) 315−317p*1

*1:

世界史

世界史

レポート;『インパール兵隊戦記』に見る、日本の「二重規範」の問題

〔以下は、2002年12月に書いたレポート。「情実主義」について。〕
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1039180795/2-22
このレポートでは、黒岩正幸『インパール兵隊戦記 「歩けない兵は死すべし」』(光文社NF文庫、1999年)*1をもとに、日本軍と日本政治の「二重規範」について考えたい。

1;二重規範

「法のもとの平等」は、近代国家の前提の一つだ。だが、戦前の日本、特に十五年戦争期の日本には、この前提が欠け、法治国家として壊れていた、と、私は考える。結果、その身分によって適用される法が異なる、という前近代性が、かなりあからさまに現れた。このレポートではそれを「二重規範」と呼ぶ。「二重規範」という語は社会科学系でしばしば用いられるが、「二重規範」を俗な言葉に砕くと、「二枚舌」「不正直」ということになると、私は理解する。
「法のもとの平等」が壊れる萌芽は、天皇制自体にあったと言える。皇道派の理解した天皇制は神政政治体制だ。1930年以降の日本は、神政政治体制になったと私は考える。法源天皇の権威に求められ、法執行者の正当性が天皇との距離に求められる体制は、「身内」と「身内以外」を差別する二重規範の温床となる[1]。軍官僚らから見ると、「神」により近いのが「身内」、「神」からより遠いのが「身内以外」だ。「身内以外」という意味で、敵も下級兵士も、軍官僚から見ると、同じだ。
二重規範」は、公式には士官未満への自決命令と士官以上への担架輸送待遇を、非公式には「軍隊は泥棒の養成所」の精神を生む[2]。
古参兵士から下級兵士への暴力による制裁が加えられたとき、「軍隊では真実を語ってはならない不文律があった」と黒岩は書いている[3]。不正直であれ、と、軍隊は兵士に教えているのだ。

〔注釈〕
  [1] たとえば丸山真男は終戦直後に「超国家主義の論理と心理」で日本の神政政治的側面を指摘している。丸山真男超国家主義の論理と心理」『増補版 現代政治の思想と行動』(未来社、1998年)21頁。「遵法というものはもっぱら下のものへの要請である。」*2
  [2] 黒岩正幸『インパール兵隊戦記「歩けない兵は死すべし」』(光文社NF文庫、1999年)184頁。
  [3] 同前、64頁。

2;インパール作戦について

 インパール作戦の全体像は掴みにくい。「統帥権」が国政から切り離された後の昭和史は、断片の集合という様相を示し、なかなかその全体を見通すのが困難だ。合理性を喪失した歴史だからだろう。十五年戦争史自体断片の集合であり、インパール作戦はその典型だと感じる。以下、自分なりに理解したインパール作戦の性格を述べる。
 インパール作戦は、決行する必要のなかった作戦だ。軍官僚たちの人間関係(情実)を過度に重視した情緒主義が、戦略的合理性を欠いたこの作戦の実施に至った。インパール作戦の悲劇は、作戦が不成功であることが客観的に明確になったあと、牟田口司令官がそれを認めず作戦が中止されなかったことで凄絶なものとなった[4]。「戦闘で敵に殺された戦死者よりもはるかに多くの将兵が、飢えと病気と味方の弾で死んでいったのである。[5]」
 十五年戦争は軍官僚らの私的関係を優先し、日本全体を破壊した戦争だと理解するが、インパール作戦はその典型だと言える。

  [4] 「インパール作戦 賭の失敗」戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁二郎『失敗の本質』(中公文庫、1991年)171頁。 *3
[5] 黒岩 前掲書、9頁。

3;『インパール兵隊戦記 「歩けない兵は死すべし」』について(以下、『戦記』と略す)

 黒岩は、「下っ端の兵士」として、この回顧録を書いた。
「下っ端の悲しみは、生きているときも死ぬときも、同じ下っ端の兵士でなければ分からない」からだ[6]。
 この回顧録は戦後39年を経て発表された。アラカンの桜のエピソードを軸につづっている。書かれている個々の事柄は事実だろうが、実際に書いたものと書くのをためらったものとの葛藤を私は文章から感じる。
 「純情」という言葉が『戦記』には三回登場する[7]。現在において「純情」という語はあまり用いられないし、必ずしも現在は美徳とはされない。黒岩は軍隊の残酷な二重規範に「純情」を対峙させている。「純情」という語で示そうとした心情は人権と公正を求める正当な人道意識だ。
 黒岩は「輜重兵は軍馬を食わない」と記述している[8]。情の移った「身内」は特別扱いするのが当然だ、とする考えだ。情としてこれは自然だが、この論理は軍隊の二重規範をある面で下支えしてしまう。もちろん自然な情を否定するべきではなく、法という参照点で公正な裁定がなされないこと、審判の不在に問題があるのだが。
 『戦記』の1944年七月二十七日の記述はやや幻想的だ。この日に人肉食をした兵士の記述がある。また七月三十一日には「人間である限りノドを通らないものがあるはずである」「わが中隊ではないが、野獣化した兵士が」「新しい死体の腰からももの肉を切りとって」などの記述がある。黒岩は否定しているが、これは黒岩が実際に見聞した第三中隊内部の人肉食事件を示しているのではないかと私は思う[9]。前述の軍馬の記述は、人肉食を非難する意図が強いのだろうと私は思う。中隊内での人肉食を語ることを避けるため、黒岩はアラカンの桜のエピソードを中心につづるという手法を選択したのではないかと私は想像する。

[6] 同前、10頁。
[7] 同前、21頁、30頁、72頁。
[8] 同前、167頁。
[9] 同前、189頁、281頁。

4;二重規範の背景

 「二重規範」が何によって生まれるのか、二つの側面から考えたい。一つは「神政政治という理屈」の側面、もう一つは「二重規範」を許すに至った経緯・歴史的側面から。

4−1;「神政政治という理屈」

 冒頭に述べた如く、天皇制国家は神政政治体制だ[10]。権力は公式には神に由来する。天皇からの距離が階級である以上、階級が上位であるほど神に近いことになる[11]。職業軍人たちは神々の末端だ。徴集兵は、神性を持たないという意味で人間であり、神々への供物だった。徴集兵らが「涙ぐましいほど忠実に仕え」たのは、半神たちに仕えていたからだ[12]。これを「忠孝」と当時は呼称した。神に拠らず、人間が人間を統治するのが近代国家だ。戦中日本は神が統治した。
 上級兵は下級兵を、ビンタで/理不尽な暴力で、教育した。これは以下の効果がある。
・理不尽な暴力を被ると、自身の価値感覚を低減させ、人命への価値意識を低減させる[13]。
・理不尽な暴力は、道理への感覚を磨耗させる。理不尽な暴力は、被害者の内面でしばしば自責感自罰感に合理化され、時には一層の献身(マゾヒズム的な献身)を喚起することがある[14]。

[10] 前掲「超国家主義の論理と心理」『増補版 現代政治の思想と行動』15頁。「天皇の神性が否定されるその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の基盤がなかったのである。」
[11] 同前、23頁。「上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する。」
[12] 黒岩、前掲、40頁。
[13] エーリッヒ・フロム 鈴木重吉・訳 『悪について』(紀伊国屋書店、2001年)。とくに「死を愛することと生を愛すること」*4
[14] 理不尽な暴力の被害者が、加害者を肯定する心的動きについては、児童性虐待などの研究で散見する。

4−2;経緯・歴史的側面

 私は以下のように日本近現代史を理解する。
 日本の開国と「近代化」は、そもそも欧米に対し体面を整えるためのものだった。近代化の本質である「法の遵守」も体裁にすぎない。法を参照点にする、という意識を内面化させるには遥かに時間がかかった。法を参照点にしない悪癖は、日露戦争にすでに萌芽がある。明治天皇及び伊藤博文との約束を破って、陸奥宗光桂太郎日露戦争をはじめたのは、前例として挙げていいと思う。
 十五年戦争日露戦争への無反省が招いた。
 十五年戦争は、石原莞爾が法的手続きを無視して独断で満州事変を起こし、政府がそれを追認してしまったことに起因する。軍人永田鉄山が待ったをかけたにも関わらず、若槻首相と幤原外相が追認した。永田は日本の文民統制を守ろうとしたのに、政府がそれを自ら棄ててしまった。
 これが範型となり、蘆溝橋事件の戦線拡大を近衛首相が追認し、軍部は政府のコントロールから離れた。これらはいずれも手続きの正当性を逸脱した行動だ。大義名文のない、戦争目的のない、軍官僚たちが私利私欲ではじめた戦争だ。モラルハザードを招き、戦争の基本的性格が、追認と二重規範となった。
 若槻と幤原は、なぜ満州事変を追認したのか? 1931年には、三月事件十月事件と、軍によるテロという圧力があった。テロという国家反逆行為に対して、政府は適切に懲罰しなかった。日本政府は暴力に易々と屈した。天皇制国家は実にたやすく、法に則らない暴力による体制へ転落した。

5;二重規範の招くもの

 軍紀は、日本では、体裁を整えるためだけのものだ。その不合理さが表れた究極形が自決命令だ。
 自決強要・自殺命令は、「戦陣訓」と、事務上の処理の都合による[15]。優先順位の甚だしい錯誤だ。体裁を整えるためだけに自国民を殺し続けた軍隊は、兵士に仲間を殺させた。仲間を殺させることで共犯意識を強要した。自国民を殺しつづけた軍官僚たちの責任は曖昧化され、一方個々の兵士…多くは徴集兵…には「仲間殺し」の共犯者意識で沈黙させる。このメカニズムは、児童性的虐待の加害者が被害者である児童に共犯意識を植え付けることで沈黙させるのと同じだ[16]。
 「身内」「身内以外」の区別は、天皇という権威の源泉を中心に、恣意的に拡大縮小される。その、境界線の操作は、戦後の十五年戦争を語る言説を混乱させる[17]。言説を不毛化させ、責任を不明瞭化させるために、境界線は恣意的に操作される。戦場では『戦記』にあるように、上層の職業軍人と下層の徴集兵は区別されたが、戦争責任論議では、しばしばこの区別など存在しなかったかのように語られ、下級兵士を二重に苦しめる[18]。

[15]  黒岩、前掲、206頁。
[16] たとえば ロバート・K・レスラー 河合洋一郎・訳 『FBI心理分析官/異常殺人者ファイル(上)』 など。児童性的虐待では「子供は大人に従うべきだ」という通念を利用し、加害者は性搾取をし、被害者に沈黙を強要する。被害児童は罪悪感を抱え、沈黙する。*5
[17] 「日本人」の境界線の歴史的変遷については、たとえば 小熊英二『〈日本人〉の境界― 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮植民地支配から復帰運動まで』(新曜社、1998年)など。
[18] 小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉 戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002年)などを見ると、この二重の苦しみを与える言説は、吉本隆明による丸山真男批判がはじまりのようだ。この手の上層下層の区別を不明瞭化する言説は、吉本の意図とは別に、いわゆる保守言説に流用され、戦争責任問題を曖昧化するための言説として利用され一般化してしまったように思う。*6

6;二重規範をどう超えるか

6−1;「自由」と「忠誠」の分岐点

 「下級兵士にビンタが雨あられと飛んでくるのは後方のことで、前線では少なかった。後方では無抵抗ででくの坊だった兵隊が、前線では実弾をこめた銃を持っているから、上官もうかつには殴れなかった」と、黒岩は書いている[19]。これは面白い示唆を与えている。
 近代は銃によって生まれた。武芸を積んだ騎士も農民の銃砲によって死ぬ。これが欧州の「自由」思想を下支えした。一方、日本では豊臣秀吉の刀狩以降、武装反抗の手段が民衆から奪われた。日本では「忠孝」というマゾヒズムが推奨され培われた。「自由」と「忠孝」の分岐点は、ここにある[20] 。

6−2;優先順位の混乱

 十五年戦争期の日本政治には、「優先順位」の錯誤・混乱が常にあると思う。戦争も政治行為の一つであり、軍部も行政の一つだ。この「優先順位」の錯誤・混乱は、現在まで続く宿痾だ。兵站を無視した作戦、目的の不明な戦争、これらは「優先順位の混乱」によるものだ。その「混乱」は、「身内」「身内以外」の二重規範とその境界操作で、言説としてはしばしば不毛化され、的確に客体視した言葉が、広く浸透したものになっているかどうか疑問だ。

6−3;政策提言の試み

 日本史学は政策提言を目的とした学問ではないかもしれないが、それでも過去からの反省を現代政治へ生かすための提言を試みるのは悪くないと思う。それを以下試みる。
 「近代」の範型となったキリスト教社会には、聖書解釈の強靭な伝統がある。条文と条文の間の矛盾をどう優先順位をつけて解釈するかの伝統がある。それは瑣末な事柄を延々議論する伝統でもあるが、その蓄積は重要だ。中世キリスト教社会では教会による「司法権」が絶大だった。日本にはこの伝統は、ない。近代政治に不可欠な審判が、日本政治には欠けている。それが「統帥権」の暴走を許すことにもなった。解釈には、その知的背景となる原則が必要だと私は思う。それを欠くと解釈は「事情変更の原則」により、追認の言説へ転落する。
 現在の日本の憲法論議も同じだ。条文間が対立したときどういう原則であたるべきか、日本ではまずそれを明言化しておく必要があるように思う。憲法を判定する基準として、現在の日本ならば
 A;国家は国民に危害を加えない。
 B;国家は国民(主権)の命令に従う。
 C;国家は国家自体を守る。
このような原則を立てて明言化し、判定基準とするべきだと考える。この三原則はSF作家アシモフロボット三原則の変奏だが、同時にこれは工業製品に求めらる「安全性」「利便性」「耐久性」の原則を表している。近代国家は人工物だ。この三原則は、政治では「基本的人権」「国民主権」「防衛・福祉」に相当すると思う。
 政教分離原則のない戦中の日本の招いた悲劇から、私たちは何かを学ぶべきだろうと思う。

[19]  黒岩、前掲、216頁。
  [20] だが、各自武装と武装解除のどちらが望ましいかは、難問だ。

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現代政治の思想と行動

現代政治の思想と行動

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失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

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悪について

悪について

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FBI心理分析官 異常殺人者ファイル〈上〉

FBI心理分析官 異常殺人者ファイル〈上〉

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殖田俊吉

〔殖田俊吉については右スレ参照 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1065549489/ 〕
昭和デモクラシーの挫折〔『自由』1960年10月号、81p-94p〕
殖田俊吉 元法務総裁
第1部
 私は昭和八年九月に役人をやめました。しかし私自身の軍に対する不信はもうよほど前からありました。昭和二、三、四年頃ですが私は田中義一内閣のときに總理大臣秘書官をしておりました。それで軍人に接する機会が多かったのです。そのころは白河義則という人が陸軍大臣で、阿部信行が軍務局長、梅津美治郎が軍務課長でした。昭和三年に張作霖の爆死事件があったのですが、張作霖の爆死事件というのは、初めは陸軍から、南方の蒋介石の方の回し者がやったんだというふうに報告を受け、たぶんそんなことだろうと思って負ったんです。ところがしばらくして、参謀総長の鈴木荘六がやってきて、じつは関東軍がやったんだという報告をしてきたわけです。それから田中さんもびっくりされ、だんだん調べてみますと、間違いないということがわかってきた。ところがそれは田中さんの当時とっておった政策とまるで逆なんです。蒋介石が昭和二年九月に日本に亡命してきました。そのおり、蒋介石の歓迎会なんかやりましたが、(今その歓迎会に出た人で残っているのはたぶん私一人だろうと思います。この間まで鳩山さんがおられましたけどもなくなりました……。)ちょうど日本の県会議員選挙のときなので、閣僚などは、ほとんど地方に遊説に行っており、蒋介石に、ちょうど選挙なものだから忙しくて全部出られないとたしかわびたと思いますが、蒋介石が、「お国は羨ましい。私どもも政争をこういうふうに選挙のかたちでやるようにしたいと思う。今政争のために亡命してきているんですからね」というような話をしておった。その翌昭和三年の初めに、まだ寒かったですが、蒋介石のそのときの秘書官だったんでしょう。張群が参りまして――蒋介石は昭和二年の秋には帰り、帰るとすぐにまた大総統になったんです。――私は帝国ホテルに迎えに行きまして、田中さんの腰越の別邸に連れて参りました。張群という人はりゅうちょうではありませんけれども日本語ができるものですから、田中さんと二人でだれも交えないで、昼から夜八時ごろまでいろいろ打合せをしました。――つまり蒋介石が北京へ行く、北伐をする、北京に張作霖がいるわけです。それでその張作霖をどうしてもう一ぺん奉天の方へ帰すかというような話をしました。つまり田中さんの了解を求めにきたわけです。それで了解をして、そのかわりに奉天へ行けば張作霖を追い打ちはしない。そうすれば満州は大体日本が委任統治のような形で、日本の事実上の政権を認めるというよな話をした。そのかわり張作霖を北京から追い出すと気が非常にむずかしいわけです。日本もいろいろ手を使い、張作霖に思い切って北京を引き上げて奉天へ帰る決心をさせたわけです。そして帰ろうとするところを――満州へ来て、満鉄の、北京から奉天へくる鉄道が満鉄の線路と交差するところで列車を爆破してしまった。
 あれは陸軍の連中が計画したもので、大へん大規模な計画ですが、どうも白河さんは知らなかったようです。白河という□□□□ちかというと正直者で、唐変木のような人でしたほんとうの□□官ですから……いわゆる参謀タイプの人ではない。
 つまり満州事変というのがあとでありましたが、あの満州事変の予行演習ではなく、あれで満州事変をやるつもりだったのです。ところが田中さんに押さえられてできなかった。それでもう一ぺん満州事変をやったのです。
 なぜ陸軍が張作霖を殺してしまったかというと、張が日本の権益をいろいろ妨害したのです。もともと張作霖というのは馬賊で、日露戦争のときに日本軍につかまったのですが、田中さんが參謀で、つかまって死刑にされるところだったのを、おもしろそうなやつだ、助けておこうというわけで助けたのです。だから、張作霖というのは全然日本で養成した人なんです。それであいつは忘恩のやつだ、日本の権益をいろいろ妨害するというのが一般の陸軍の人たちの頭だったのでしょうけれども、田中さんに言わせれば、奉天におる張作霖ならば日本のいうことを聞くだろうけれども、あれが大総統となってとにかく北京に乗り込んでおれば支那国民の御機嫌をとり、日本の権益を妨害し日本に抵抗しないと、どうも北京における地位が保てないのではないだろうか、だから張作霖にも同情すべきものがある、これを奉天へ連れて帰れば、張作霖も目先がきくやつだからそんなばかなこともしないだろう、こういう考えが田中さんの頭の中にあったのでしょう。だいたい張作霖が北京へ行って大総統というのは無理だ。こうしたところから当時、日本側から吉田茂さんが支那総領事で北京にいたのですから説得工作に動いたと思います。
 それから、当時外務政務次官だった森恪は田中内閣のもとで――河本大作や松岡洋右(当時の満鉄の副社長)と一緒になって、田中さんをつまり裏切ったわけなんですが――東邦会議というのをやりましたが、東邦会議というのは、対支政策、大陸政策を論じたんです。それは森恪の発案です。
森恪には支那浪人特有の対支政策があるわけなんです。三井物産の人で、支那におって仕事をしている人は、一種の大陸政策はみんな持っているわけなんです。それで何でもかんでも日本が力でもって支那を支配していく。こういうことなんですね。もう日本はやれる、だから日本に反抗するやつはみんなけしからぬというわけなんです。それで森恪がそういう大陸政策、対支政策をきめようというわけで、外務省に大勢集めて会議を開いたわけなんです。ところが大した結論が出るわけもないものですから、結局かけ声だけは大きかったけれども、大した実質ある成果は上げられなかった、それが森には非常に不満だったのでしょう。また彼は大連へ行き、自身で小さい東邦会議を開いています。これには吉田茂さんも参加しています。
 森恪という人は非常にシャープな人で、三井物産で育てられた人で、学校は神田橋のところにあった商工中学の出身です。それで物産の練習生みたいにして向こうへ入って、今でいえば愚連隊の親分みたいな男でした。非常に若くて、三井物産では大へんに出世が早かったわけです。帝国主義者であるし、それからすぐ全体主義者になりますし、共産主義なんかほんとに理解はしていなかったんですが、共産主義でも全体主義の方をベトーネンすれば、みんな賛成しちゃうんですからね。日本人はみんなそうですよ。□□□東洋赤化の任をおびて支那にきたボロージンと会っても、□□□□はなかったろうと思います。
 それから森恪の伝記がありますが、あれは非常に誇張してあります。森恪というのはそんなに偉い人じゃなかったのです。あれは山浦貫一君が書いたもので、山浦君は森恪の子がいの人ですから、それはそのとおり受け取れません。そんな力もなかったのです。それで先にのべたように、張作霖爆死の真相はあとでわかったのですが、森恪、それから松岡洋右もみんなこれを承認しておった。それでいいことだと思っておったらしいです。それが田中さんの意図にも合するんだというふうにいったらしいのです。田中さんは非常に郡を抜いて見識のある人でしたから……
 田中さんという方はお若いときや、軍務局長なんかの時分にずいぶん支那でいろいろなことをなさっていますが、そのときと政友会総裁になられて、首相になられた時分ではその政策というものはずっと変わっております。
私が袁世凱を殺した話をしたら、あんなばかなことをしたから、こんなことになったのじゃないか。あのときはばかだった、若いからな、といわれたのを憶えています。
〔続く〕

殖田俊吉2

軍部・革新官僚の日本共産化計画案〔『自由』1960年11月号、89p-99p〕
昭和デモクラシーの挫折(下)
殖田俊吉 元法務総裁
 私は前回申しましたように昭和十二年に「政治行政機構改造案」なるものを、はからずも所見し、それを抜萃したものを高松宮にさしあげましたが、現在、宮様が持っているかいないか聞いてもみませんが、それを持ってきた男は、これはずいぶん激しいので、実行しにくく廃案にしたのだそうですけれども、これは大体の基本方針ですから、あすこへ入ると、それを読まされたんだといっていました。だからあなたの興味のありそうなものだからお目にかけますといって持ってきたんです。これはたくさんあるのかというと、ありません。日満財政経済研究会に一部だけしか残っておりませんといっておりました。それが六部のうちの一部かもしれません。私のところへ持ってきたのは、第一号だったと思います。それはりっぱなほんとうのコミニズム計画です。しかし感心なことに共産の「共」の字も書いてないんです。
 覚えているだけ申し上げますと、一番初めは政府の組織、これは内閣制度をやめて国務院というものを作り、国務院というものは、国務総理大臣と国務大臣が四人おるわけなんです。そうしてそのほかにその下部組織として行政長官がずっとおり、大蔵大臣もおりますし、農林大臣、商工大臣、それから外務大臣、文部大臣もおる、まあもとの形ですね。その国務大臣をこしらえる。国務大臣四人のうち、二人は軍人がなることになっているんです。それから一番の特徴はそこに経済参謀本部ができることなんです。そして経済参謀本部というのが国務院の一番の中枢であるようでした。政府はそういうふうにできて、同時に政党ができるんです。それが日本国権社会党という名前です。
 国権社会党が一番大きな階層ですね。一国一党で、初め国権社会党員百万人を作る予定になっておりました。そして国権社会党の総裁が当然内閣総理大臣になる、こういう建前なんです。
 それから今度は、国権社会党の幹事長が経済参謀本部の部長になる。それで経済参謀本部で人事と予算とを握る仕組みなんです。それから今度は、同時に議会もこれと呼応して改造されるわけです。議会は衆議院はあのままなんですけれども、貴族院は多額納税議員をやめるこれはいいんですが、公、侯、伯、子、男爵はあるのです。あるんですが、勅選議員を大増員して、勅選議員が大体過半数を占めるようになる。その勅選議員の政府任命議員は大体国権社会党員を任命する。これははっきり覚えていませんが、それと同時に秀議員は比例選挙にします。そして全国を四十五の職場区分に分ける。その職場区分に分けて、その各職場から選出する、こういうことです。職葉から出るのはほとんど全部国権社会党員で、国権社会党員が国会の上下両院の絶対多数を占めるという仕組みです。天皇はあっても、天皇の命令なんかというものはないも同じでしょう。
 この改造案は昭和十一年が六ヵ年計画の初年度です。ですからおそらくあれだけのものを作るには九年か十年、もっと前から用意したものだろうと思います。それで国権社会党の案ですが、私はすっかり軍人のとりこになっている近衛さんと会うのはきらいでしたが、十八年か十九年ごろでしょう。今の吉田(茂)とか、ああいう連中が、近衛に会ってくれ、近衛が非常に反省してわれわれと一緒にやろうとしているからといいますから、それじゃしょうがないから行こうといって、小畑敏四郎君と私は近衛さんのところに出かけていった。そして半日おりまして、私は、翼賛会はあなたが作ったと思っていただろうけれども、あれはちゃんと種本があるんだ、陸軍で作ったんだというと、いやとんでもない、あれは自分と風見君とで作ったんだ、決してそうじゃない、いやあるんだ、あなた方そういうが、皆暗示を受けてやらされるか、ほんとうに命令でやらされるか何か知らぬが、あるんだ。それで私は、国権社会党の案だけを息子に書かせまして写したのを持って行って見せたんです。これをごらんなさいといったら、先生目を皿のようにして熱心に見ました。
 近衛は私は三べん内閣を組織して、いろんな人に対する実験をしてきた。全部思い当たることばかりです。わかりましたと。あの人は河上さんの弟子だけあって、判るんです。それじゃ一切心を投げ打ってあなた方に協力しますということになったのです。
 こういう行政改革案の背後にいた一番おもな軍人のかたまりというと、統制派です。このことを伊藤正徳君に質問したんです。伊藤君は永田鉄山という偉いのがいた。永田鉄山がいたらそういうことはなかったろうというのです。それで伊藤さん、あなたの話は大へんけっこうだが、昭和の初めからずっとやっていた一つのグループがある。その人間はだんだん大尉になり、中佐になり、中将にまで行ったけれども、皆同じ人なんだ。その人は十人か十四五人しかいないんだ。それが軍務局長になったり、参謀本部の部長になったり、あるいは課長になったり、皆あっちに行ったり、こっちに来たりしていますけれども、一つの党がある。この党の親方は永田鉄山なんだ。永田鉄山の子分なんだ。子分はああいうことをしたが、親分は知らなかったんだろうか。
 このことを真崎だけは見抜いていた。荒木なんか見抜いていない。それで真崎たちが見抜いたのは、昭和六年の三月事件のときなんです。あれからかれの迫害が始まった。それで真崎は私にこういいました。自分も国家社会主義だけが国を救えると思っていた。それで弘前の師団長になって行って勉強したら、こつ然として間違いだということがわかって、その徒党からひどい目にあったんです。真崎だけが悪者で、二・二六もみんなあれがやったんだというふうに見られたようですが……。
 それから私もおかしいと思った。共産主義革命だと思ったんですけれども、というのは、大蔵省のところで銀行関係の項をみると、銀行は国営なんです。日本銀行はむろん国営にしてしまいます。それから興行銀行とかいうものを一本にした産業銀行というものを作る。これも国有国営なんです。それから貯蓄銀行、これは民有国営なんです。予算の都合があるものですから、民有国営をたくさん作るんです。のちに貯蓄銀行ができたときに統合しまして一本になった。ははあ、日本貯蓄銀行ができるのだなと思っておった。そうしたら今でも覚えておりますが、あのときの新聞では貯蓄銀行を統合することになったけれども、どういう名前にしていいかわからないから、みな日本銀行の楼上に集まって協議した結果、日本貯蓄銀行になったと載っているのです。名前は初めからあるのです。ところが非常にうまいものです。みな知らない人を集めて、それに何か暗示を与えてそういうところへ持っていく。ですから、責任者は見えないようにしてある。この案があるということはだれも知らないのですから、みんな参画していた人たちは自分たちで案を作ったように思うのです。それから普通銀行は、株式会社日本普通銀行というものを作るつもりだった。一本の銀行で全部支店にするつもりだったらしい。それでその小手初めにいろいろ銀行を統合していたわけです。そういうところの経営者はみな国権社会党が入るのです。
 それから産業国営です。産業は初め重要産業と書いてありますけれども、全部あれは国営のつもりです。その小手初めにやるのが電力国営、それで戦争指導計画書にも電力国営と出ておりますが、今の改造案にも電力国営が出ております。みな同じものです。ですからだんだんやっていきますと、改造案が一番根本の憲法であって、あとはそれの実行だということがわかった。それからこの改造案に、社会省ができる、これは厚生省ですけれども、国策要綱の中にも厚生省は社会省という名前であるのです。それでみな同じものだということがわかった。それから農林省です。これは小さなものは産業国営にすぐにはしないで、協同組合みたいな形でやらせるのもごく少数残っておりました。お米ももちろん国営です。それから酒も、しょうゆもみな国営です。それで農林省のところで一番面白いのは人民公社です。それは全国に約三万の共同共営農場というものを作る。共営農場というのは、今の村は大きすぎるから、村の「字」程度のものにして、村の人が持っている村内の耕地を全部村が買収し、村債を発行して村債で買収する。そして経営はみんな共同で経営する。そして村長と在郷軍人会長と農場長の三人で相談をして経営する。
 それで商業はなくなる。商業はなくなりますから、公営の販売機関にそれをみな持っていくのです。そしてその代金をもらいまして、その代金を共同共営農場で働いた時間によって分配するわけです。
 ところがそれは穀物だけじゃないんです。米、麦を今の形にする。林業も養蚕もこの形、それから水産、水産は海が広いですから、そこで遠洋漁業近海漁業沿岸漁業と三つに分けて、遠洋漁業は漁業会社統合なんです。それから近海漁業は、各県、庁といっておりましたけれども、庁でやる。それからごく沿岸は漁民の共同経営、そういう形です。私はこれはコルホーズだと思ったんです。コルホーズのもっと進んだもの、人民公社です。人民公社で食堂を一緒にしてどうということは書いてありませんけれども、それをやるつもりであったことは間違いないです。

〔続く〕