「判り易さ」の原則
「判り易さ」について、私は小池一夫劇画村塾のテキストで学習した。そこから学び自分でさらに考えたことを書いておく。マンガは「判りやすくなければ無価値」だから、「判り易さ」については技術論が発達している。
(「判り易さ」は「単純化」ではない。「単純」なマンガが面白いわけがない。)
《「判り易さ」の原則》
1;「読者にストレスを与えない」ように最大限の労力を払う。
2;ロング(大状況)とアップ(眼前)を適宜用いる。
2−1;最低なのは、本筋に無関係な大状況ナレーションが延々続くこと。これは「判りにくい」。大状況説明は、必要最小限であるべきだし、冒頭である必要は全くない。
2−2;登場人物がどこにいてどういう位置関係にあるのかを、まずはヒトコマで絵で情報提示しておかなくては、読者はストーリーを理解できない。そのために「ロング」画面を使用する必要がある。「大状況」を見せる必要がある。「ロング」がないマンガは、素人の描く、顔だけ、バストアップだけで描かれたマンガと同様に、「判りにくい」。
3;誰による行為なのかを明確化する。誰によるセリフなのかを明確化する。誤読される可能性のあるものは、必ず誤読される。
まずは以上かな。「読み難い」文を書く人は、以上のことに配慮すれば、だいぶ「読み易く」なると思う。
「判りにくい」文は、アップばかりでロングがないことが多い。ロングの画面を描くのには画力や労力がいるように、ロングの、つまり引いた視点での文を書くには、知力や労力がいる。
「荒らし」やゾンビの文は、《「判り易さ」の原則》のちょうど正反対で書かれている。「コピペ荒らし」などは典型だ。コピペの発話は投稿者によるものではない。「誰のセリフ」なのか、「誰による行為」なのかを、故意に錯乱させ誤読させるのが、「コピペ荒らし」の手法だ。